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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

漫才とコントの区別について

漫才とコントはどう違うの?

漫才とコントはどう違うか?というのは物凄く頻繁に語られる話です。同時に、物凄くでたらめに語られる話です。一般には、マイクの前で行う立ち話が漫才であり、役柄に入って演じるものがコントだと言います。

この他のあまり一般的ではない定義として、「動いたらコント、動かなかったら漫才」みたいに言う人もいるそうです。僕は何言ってるかマジで分からないのでパスします。(人は生きていたら動く)

他に、「ギターを持っていたら漫才じゃない」みたいに言う人もいますが、正月の演芸番組で三味線持ってる師匠方を見るととてもそんなこと言えないので、そういう意見もパスします。

あくまでも「役柄に入るか否か」がポイントだと思って、以下をお読みください。

 

和牛とスーマラはコント?

漫才の中には、「今から俺アレやるからお前コレやって」で始まる、「漫才コント」と呼ばれる形のネタがあります。最初にネタフリとして、お互いの配役を決め、その役柄になりきってネタを進めていく形式のネタです。

先のM-1グランプリでは、優勝した銀シャリはそうした「漫才コント」の手法を用いませんでした。2位、3位になった和牛は、銀シャリに匹敵するくらい、あるいは銀シャリよりも一枚上のウケを取っていましたが、「漫才コント」の手法を使っていました。

そんな先のM-1グランプリの結果を受けて、「銀シャリは漫才だから優勝した。和牛とスーマラはコントだから優勝できなかった」と語る人たちがいるそうです。確かに、和牛やスーマラの手法は「漫才コント」ではありました。しかし、「漫才コント」を「コント」とみなすのは、僕はとんだ勘違いだと思います。

というのも、和牛・スーマラのネタは、いずれも「役に入る」というコント的な特徴こそあれ、「漫才コント」という形式でなければ笑いにならないネタでした。場面をコロコロと切り替えていく和牛のネタは通常のコントになりませんし、配役をコロコロと切り替えていくスーマラのネタはそれ以上にコントになりません。

「漫才コント」で出来る笑いが、全て「コント」で出来るわけではないのです。ということは、「漫才コント」と「コント」は別ジャンルだということになります。

 

銀シャリは漫才?

一方で、例えば今回の銀シャリ二本目のネタ「雑学」などは、正統派しゃべくり漫才に見えます。ネタの中でコントには入っていないし、「マイクの前で行う立ち話」という定義からは一切ずれません。

しかし、ネタの中で「俺あれやるからお前これやって」と言っていないとはいえ、あのネタには演技の要素があります。ボケの鰻さんは、普段からあんな風に雑学を語る人なわけがないからです。「冷凍みかん」の語源を自信満々に語る鰻さんは、当然あの瞬間には嘘をついていますし、演技をしています。

つまり、和牛やスーマラのネタよりも、銀シャリのネタはむしろコントに置き換えやすいということになります。センターマイクを外して、「知ったかぶりをして雑学を語りたがる友達」と「それを聞いてなだめる友達」を椅子に座らせたら、それはもう殆ど同じ台本のままでもコントに置き換えられるのです。

「場面を切り替えながらデートのシミュレーションをしたがる奴(和牛)」とか、「役割をコロコロ変えながら侍やりたがる奴(スーマラ)」なんかよりもずっと自然に、ネタがコントの文法にマッチします。 現に、近い設定のコントをインスタントジョンソンがやっています。

別に銀シャリのネタが漫才じゃない、コントだ!と言いたいわけではないです。もとより、漫才というのがコント的に役に入ることを前提としたものなんだ、ということが言いたいのです。

 

漫才とコントの区別は本質論的には不可能だ

では、最初の問いに戻ります。漫才とコントの違いはどこにあるのか。僕は、漫才とコントの違いを「本質論」的な立場から導くことは無理なんじゃないかと思います。

「本質論」とは、「●●の本質は××だ」というように、物の定義や特徴をダイレクトに言い表すような論法のことを言います。この論法で、「漫才の本質は××だ。コントの本質は○○だ。だから両者は違う。」というような論じ方をしようとすると、必ずグレーゾーンが生じてしまいます。

例えば、銀シャリよりも更に進んでキャラクターを武装して漫才に入る、オードリーやチュートリアルの漫才については、より一層コント的な、漫才の形をしているだけのコントなんじゃないか?という良い方もできるわけです。

あるいは、バナナマンのネタの一部は、お互いのことを「日村」「設楽」と本名で呼び合い、掛け合いの中で笑いを取っていきますから、コントであるように見えて、漫才にも置き換えられるということになります。

「漫才の本質は××だ」「コントの本質は○○だ」という本質論的な論じ方は、ざっくりした区分の時にはいいのですが、明確な区別をしたいのならば不向きだということがわかります。

ですから、受け手の側が(あるいは発信する芸人やテレビの側も)あれはコントだ、あれは漫才だ、みたいに決め付けて順列していくことにはあんまりメリットがないように思うんですよねえ。

どのみち結局、面白かったらいいじゃないですか、ねえ。

 

 

 

 

 

 

ではどうしたら漫才とコントの区別ができうるのか(余談)

ちなみに、社会学専攻の大学院生が本気で漫才とコントを区別しようと思ったらこういう考え方になる、というのも示しておきます。

漫才とコントの区別をするには、本質論とは異なるアプローチを持ち出さねばならないということになります。具体的には、構築論的なアプローチです。すなわち、「○○は漫才だ」「××はコントだ」という区別が、見る側、演じる側、それぞれの意識によって構築されていくものだ、という考え方です。

もとより、漫才もコントも人が作って、人が楽しむためのものですから、本質論的なアプローチよりも構築論的なアプローチの方が適してることは自明です。

すると、見る側・演じる側、それぞれが、今行われているものは「漫才」なのか「コント」なのかを仕分けするために利用している情報の要素があるはずで、それのいくつかの組み合わせによって、「漫才」「コント」が区別されていると考えるのが妥当です。

すると、「漫才」「コント」の区別をするには、いくつかの妥当そうな質問のリストを作って、漫才師、コント師、劇場に通うお笑いファンあたりをサンプリングして質問紙調査し、要素ごとの信頼度のデータを取って、漫才/コントの区別をする際の信頼度が強い項目をあぶりだす必要があります。

 

例えば以下のような感じに。

・センターマイクが

ある → 漫才率 X%

or

ない → コント率 X%

 

・舞台装置(音響、照明、当日のステージの感じなど)を台本に

組み込んている → コント X%

or

組み込んでいない → 漫才 X%

 

(更にこの調査を補完するものとして、具体的に意見が割れそうなネタ、例えばジャルジャルM-1 2010のコンビニのネタとか、アルコ&ピースのTHE MANZAI2012の忍者のネタ、サンドウィッチマンキングオブコントのネタとか、その辺を無作為抽出した人に見せて、漫才かコントかを仕分けてもらい、そののちに区別した理由を問うて、先ほどのデータのうちどれが決め手になっているかを見る段階があることが望ましい)

Taiki Obonai 2014-