僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

「意識高い系」をもう一度考えてみた

意識高い系」バッシング

私たちの周りに「意識高い系」という言葉が溢れ出したのは、いつからだろう。

起業する奴は意識高い系、政治を語る奴は意識高い系、勉強する奴は意識高い系、ボランティア活動する奴は意識高い系、云々。当初その言葉を聞いた際には、世のため人のため自分のために頑張ろうとしている人たちを叩くなんて道理にかなわん。何てしょうもない奴らなんだろう、と思った。

だが、周りを見渡してみれば、確かに叩かれてもおかしくないような「意識高い系」が死ぬほど溢れていた。誰でも考えつくような社会変革のプロジェクトを、さも自分が日本で初めて思いつきましたという顔で語り、予算100兆円くらいしそうなそのアイディアにふんぞり返る奴なんかを見ると、「意識高い系」というより「頭悪い系」だな、と思った。なるほど、しょうもない奴らはこっちかもしれない、と思った。

ただ、よくよく観察してみると「意識高い系」としてバッシングされているのは、「意識高い系」のうち「頭悪い系」だけとも限らないようだった。純粋に努力している人たちのことも叩く奴らがいるのを見て、結局みんなしょうもないな、と思った。そのあたりから、僕は「意識高い」というワードを自分で使うことをやめた。使うだけ恥ずかしい種類の言葉だと思ったからだ。

 

意味の拡張と世俗化

近頃は一時期に比べると、かつての意味での「意識高い系」バッシングは沈静化したように思える。結局、バッシングする側に正当性がないことが多かったり、「意識高い系」の上澄みの連中には誰もかなわなかったりするからだろう。

結局、当初「意識高い系」として叩かれていたビジネス志向の強い人たちや、社会貢献に努める人たちは、何をどう考えてもバッシングする連中より世の中のためになる人たちだ。彼らは正義と大義名分を持っている。彼らを叩いたところで、叩いてる方がアホばっかやんけ、の一言で片づけられてしまう。

だから、「意識高い系」というワードはその意味を拡張する方向へと向かった。アイスコーヒーの飲み方だとか、刺身の食い方だとか、何味のラーメンが好きだとか、ただの日常的な趣味趣向の領域にまで話題が引き寄せられた。言葉の守備範囲が極端に世俗化したのである。

具体的な例としては、以下のようなものだ。

・刺身を塩で食べる奴は意識が高い
・塩ラーメンが好きな奴は意識が高い
・ブラックコーヒーが好きな奴は意識が高い

こうした世俗的な趣味趣向には正義も大義名分もないぶん、叩きやすい。また、これらの世俗的な話題には、難解なビジネスモデルや社会問題の論理が絡まないため、話題としても単純明快で叩きやすい。

 

結論

結局、「意識高い系」という言葉の趨勢をめぐっては、皮肉なことだが、意識高い系をバッシングする人たちが、楽な方に流されやすい意識の低い人たちだということが証明されただけだった。

ただ一方で、そうした世俗的な意識の中で、日常的な振る舞いのうちどの部分が「意識高い」ものだと考えられているかについては、ちょっとした関心がある。塩ラーメンが意識高いと考えられるのはなんでなのだろう。マルちゃん麺づくりの塩でも意識高いんだろうか。

色々気になることもあるので、このイシューにロングランでコミットしていきたい。グランドデザインに共感でき、フルコミットできるあなた、まずはコンセンサスを作るために麻布のスターバックスで朝活しましょ。

Taiki Obonai 2014-