読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

本質と構築

社会学 雑考

本質と構築の対立

社会学において、長らく、本質主義構築主義は対立し続けねばならないものであるように扱われている。どちらがより世界と人間との関係を正しく捉えているかについて、いまだ決着を見ない論争が続いている。僕は、本質主義にも、構築主義にも、その二つを対立することにも、どこか虚しさを感じる。

本質主義とは、現実の背後に厳密な因果関係を想定するものの見方だ。すなわち、人間が認識するこの世のほとんどのものについて、それが何らかの厳密な力学に基づいて成立していると考えることをいう。

一方で、構築主義とは、現実とは厳密な因果関係に支配されたものではなく、人間の意識・認識の作用によって構築されるものであり、そこには一定の恣意性があると考えるものの見方をいう。

前者は、何らかの真理なるものを人間の外に置き、それを観察によって明らかにできると考える傾向にある。後者は、何らかの真理なるものを人間の認識に求めようとするか、あるいは真理など存在しないと考える傾向にある。

 

制度としての本質と構築

本質主義構築主義は、いずれも生活世界における社会的場面の一側面を鮮やかに捉えていると、僕は考えている。

社会的な文脈において真理らしきもの、法則らしきものが明らかに僕たちの外に、固定的なものとして設定されることは往々にしてある。それは例えば制度などの枠組みによって維持される。

例えば、人を殺すことはほとんどの国・民族の暮らしの中で犯罪行為とみなされ、人を殺したものは厳罰に処される。仮に、人を殺した時に死刑になるA国と、終身刑になるB国があるとする。どちらの国においても、人を殺してしまった場合には罪の軽減や猶予がないものとする。

このとき、事態を<ある出来事>-<社会的反応>という構図で整理すると、以下のようになる。A国の制度的枠組みの中においては、<人を殺すという出来事>の発生を原因として、<死刑>が引き出される。B国の制度的枠組みの中においては、<人を殺すという出来事>の発生を原因として、<終身刑>が引き出される。

両国ともに個別のルールが存在し、それが差分を持ちながらも併存できるのは、両国の法律が自らの制度の作用する範囲を限定しているからである。

このとき、制度は構築的な側面と、本質的な側面の両方を個人に対して見せる。A国とB国とで殺人に対する制裁が異なることは、制裁の構築性を浮き彫りにする。しかし、A国においてもB国においても、制度の作用する範囲においては、その制度は本質的なものとして機能する。

 

本質か構築か

結局のところ、本質主義構築主義とは、どちらも同じ現実のうちの異なる部分を取り出して解釈したものに過ぎないように思える。両者を両立させうる概念装置があれば、社会的現実の客体としての在り方や、解釈する主体としての人間の在り方について、より明晰に記述できる。

本質と構築が、社会生活の中で両立しているはずだ、という直感はある。問題は、それがどういうメカニズムで両立しているかだ。本質と構築の間に架かる橋が何かを、ここ数か月、のんびり考えている。

Taiki Obonai 2014-