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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

終わりなき日常を考えながら作業して生きろ

論文執筆の作業

論文執筆という作業は、世間的なイメージにもまして作業感が強い。文献の著者や年度をまとめていく単純作業、調べたいワードを抽出して文献を読んでいく単純作業、目次作成や文章校正などの単純作業。この作業には終わりなどないのではないか、と思えてくる。

そういう作業に一番適している場所はどこだろう。当然、その時の気分にもよる。僕は教室よりは家が好きで、家よりは研究室が好きで、研究室よりは図書館が好きだ。あまり明るすぎなくて、ある程度パーソナルスペースが保たれる場所の方がいい。考えてみたら、論文執筆作業に適している場所とは、洞窟みたいな場所なのかもしれない。

洞窟といえば、プラトンの「洞窟の比喩」に関連して、思うところがある。

 

プラトンの「洞窟の比喩」

僕たち現代人は、直接的であれ間接的であれ、プラトンの影響下にある。僕たちが受ける教育の内容は、ほとんどすべてが古代ギリシアの哲学と関係する。なぜギリシアで哲学が誕生したのか?一般には、ギリシアでは文明・文化・国家の発達によって、人々の暮らしに暇な時間、ゆとりのある時間が生まれ、それが哲学的な思考を産んだと説明される。

古代ギリシアの哲学者には大物がたくさんいるが、プラトンは1,2を争うほどの大物だ。

彼が発明したもののうち最も偉大なものは、観念と実物を意識的に区別する思考方法だ。彼は、目の前に見えている現象や物体、例えば目の前の椅子やペンなどについて、それらは「椅子」「ペン」の観念を具体化したものに過ぎず、「まさに椅子そのもの」「まさにペンそのもの」ではないと考えた。

彼はこのことを、「洞窟の比喩」として語る。洞窟の中で、人々が光に背を向けて暮らしている。人々は、光によって作られる様々な影を見て、「これは椅子だ」「これはペンだ」「これは馬だ」と考えて生活している。しかし、人々が見ているものは、本物の椅子やペンではない。彼らは光によって作られる影を見ているだけだ。「洞窟の比喩」の内容はこのようなものだ。

彼は、目に見えるものを信用しなかったのである。目に見えるものの背景には必ず何らかの観念が存在している。彼はそう考えた。彼の言葉でいえば、その観念は「イデア」である。プラトンは、影を見るのみではなく、その光源に存在する観念そのもの、イデアそのものを想起することの必要性を説いた。

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現場的反知性主義、作業的反知性主義

プラトンが上述のように主張していたのに真っ向から反して、ここ数年、以下のようなフレーズがかなり多く飛び交っている。

「現場を知らない人間がものを言うな」
「経験を生かした学びをしましょう」
「目の前の人を笑顔にしよう」
「まずは頭よりも手を動かせ」

要は、観念よりも現実を生きろ、作業しろ、という考え方だ。

このスタンスが、ダメだとは思わない。ただ、このスタンスに固執するあまり、あまりにも現場主義・作業主義に偏りすぎて、目の前にある現実の背景にあるものを考える時間や労力を、無駄だといって切り捨ててしまう人たちがいる。僕はそういう人たちの態度については、厳しく批判したい。

目の前の現場に見えるものだけを問題として扱い、その作業的解決だけを考える。プラトン風に言えば、ずっと狭い洞窟の中で影だけを見ている状態だ。そこには思想や思考はない。ただただ目の前のものを淡々と作業していく。

僕はこういう「現場こそすべてで考える必要がない」「作業こそすべてで考える必要がない」というような考え方を、現場的反知性主義とか、作業的反知性主義と呼んでいる。

 

「洞窟」の中の終わりなき日常

何世紀の時を経て、世の中の事情もプラトンの生きた古代ギリシアとは異なっている。思索することの価値を社会にプレゼンしきれなかった学問の歴史にも責任はある。結局、プラトンの説いた、現実と観念を峻別して思考する態度が尊重されなくなるのも、仕方ないのかもしれない。

社会の単位でも、具体的な社会問題の存在が広く共有されるようになり、当座の解決が重視されるようになっている。個人の単位でも、仕事の分業・分化を背景に、一人一人のジャンル化、個別化が進み、もはや同じ社会を共有していることが実感されないような世の中になっている。

ほとんどすべての人間が、目の前のことだけをやっていれば生きていけるようになってしまった。僕たちの中のほとんどはもう、洞窟から出る必要はないし、洞窟の外のことを考える必要もないし、洞窟の中でひょうひょうと、のうのうと生きていけるようになっている。

民主主義が社会主義に歴史的に勝利したことをみて、政治学者のフランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を語った。オウムに熱狂する若者をみて、社会学者の宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」と語った。僕たちの平坦な日常は、どんどん僕たちを現場的、作業的にさせる。

それでも、僕たちは洞窟の中から羽ばたける思想と思考を持ち続けるべきだ。日常の作業に悪戦苦闘しながらでも、観念的なことを考え続けるべきだ。なぜならば、具体的な現実を見ているだけでは想像できない、別様のあり方の世界が、観念の世界には広がるからだ。

借り物ではない、手垢のついていない理想を打ち立てるためには、洞窟の中で作業しているだけではダメで、僕たちはもっともっと光源に目を向けなければいけない。日常の作業に、日常を維持するため以上の意味を持たせるには、僕たちは具体的なものだけではなくて、ここにないもの、今ないものを想像しなければならない。ここにないもの、今ないものは、観念の世界からしか生まれえない。そしてそれは、必ず具体的な現実に貢献する枠組みを作り出す。社会的な現実を更新できるのは、現実ではなくて観念だ。

洞窟によく似た場所で、論文執筆の準備作業をしているとき、時たま僕はこんなことを考える。終わりなき日常を考えながら作業して生きろ。そんな風に自分に言い聞かせる。作業に戻る。

Taiki Obonai 2014-