僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

教養とは概念的語彙のことである

「教養を説明できないコンプ」

僕はそれなりに読書をする。専門書も新書も小説も読むし、洋書も読めなくはない。詩や写真集を読むこともある。そんな風に色々と読書をしていると、本を読んでいるなら答えてくれよ、教養ってなんなんだ、とたまに問われる。そのたびに、いろいろ考えて暫定的な答えを出すのだけれど、自分でも全然しっくりこない。

僕の所属する京都大学教養主義的な学風があるともいわれる。指導教官は教養に関する研究をしている。教養を論じた本も何冊か読んでいる。それなのに、僕は教養について、自分の言葉で納得いく説明ができない。そういうわけで、僕は「教養を説明できないコンプ」を持っている。

今までの自分の説明を思い返してみる。

 

「知識を持つことによって生き方の変容を引き起こすことだ」とか言ったこともある。

「見えないものが見えるようになることだ」なんて説明したこともある。

「生き方に応じた知性を身に着けることだ」などと濁したこともあった気がする。

 

でも、どの答えも別にしっくり来たから言っているわけではない。何となく他に思いつかなくて、でもこんなもんかな、と思って答えているのだ。しかも、それぞれの答えは質問してきた相手の立場や価値観を考えて、納得されるような言い回しでひねり出したものに過ぎない。もちろん、教養が相手に合わせて変わるような伸縮自在の概念だとも思っているわけではない。

 

①教養とは知・知性に属するものである

②教養とは特定の課題に対する解決能力ではない

③教養とは生き方の変容を引き起こす、特に生き方を豊かにする

 

例えば上述したようなことは、一般的な教養の定義によく盛り込まれることだし、僕もまさしく教養の持つ特徴だと思っている。でも、この辺の特徴を端的な言葉にバシっと盛り込むことができない。核心をつく言葉を、何となくずっと頭の中で探し続けている。

 

言葉と知と社会

そんな折、僕は自分のブログをさかのぼって、過去の自分が何を考えていたのか何となくチェックしていた。三年くらい続けているブログだから、それなりに記事のストックはある。文章下手だなあ、ここの言葉遣い適当だなあ、気に入らないなあ、という箇所にたびたび遭遇してイライラしつつ、何となく「教養を説明できないコンプ」の解決に貢献しそうな記事を見つけた。

それは、以下の記事である。

ああ、こんなこと考えていたなあなんて思いながら読み、ちょいちょい気になった箇所を書き直していたら、はっと気が付いた。 教養とは言葉の獲得だ、と。

そもそも教養に限らず、知とか知性とか呼ばれるものは、すべて言葉によって記述されたり、伝達されたりする。僕たち人間は、一人一人の個体には寿命があるから、自分の経験というのは寿命分しかできない。それに、一人一人の脳は経験したことを忘却してしまうから、すべての経験を覚えておくこともできない。だからこそ、言葉を通じて経験をストックして、それらを生きることに反映させてきた。その言葉による経験のストックこそが、知のもっとも原初的な、そして唯一の形態である。

言葉とは他者から教わるものである。生まれた瞬間に日本語や英語を話せる赤ん坊はいない。そういう意味で、知の伝達ツールである言葉は、根本的に社会的なものだ。ゆえに、知も社会的なものだ。僕たちは他者との社会的なつながりを通じて言葉を獲得し、その言葉によって知を社会的にストックしていく。そして社会的にストックされた知を自分の中に取り込むことによって、知識や知恵を獲得していく。

この辺の理屈は、考えてみれば自分が専門にしているはずの現象学的社会学のもっとも根本的なロジックだ。灯台もと暮らしとはこのことか。

 

どのような言葉が「教養の言葉」なのか

教養とは知に含まれる。知とは言葉である。それなら、どのような言葉が「教養の言葉」なのかを突き止めれば、教養とは何かが分かることになる。世の中には無数の言葉があり、言葉の区別の仕方にも無数の方法があるが、「教養の言葉」とはどんな言葉なのだろう。もう一度、一般的に教養が持つ特徴とされるものを挙げる。

 

①教養とは知・知性に属するものである

②教養とは特定の課題に対する解決能力ではない

③教養とは生き方の変容を引き起こす、特に生き方を豊かにする

 

「教養」が①の通り、生き方にも影響を及ぼすものならば、僕たち人間が生きることと知をいかに結び付けているかから考える必要がある。

僕たち人間は普段、言葉によって世界を分割したり、統合したり、理解したり、構成したりしている。社会にストックされた知を自分の中に取り込みつつ、その知をもとに社会的世界を解釈しながら、僕たちは具体的な生活世界を生きている。

教養が②の通り、特定の課題に対する解決能力を意味しないのならば、教養とは具体的な生活世界の中にあるものではないと考えられる。課題解決は、すべて生活世界の中にあるからだ。

すると、教養とは課題解決以前の基礎的な社会と知のかかわりそのものにあるということになる。ゆえに、「世界を分割する方法が複雑化されるような知・言葉」が「教養の言葉」なんじゃないかと見当がつく。

「世界を分割する方法が複雑化されるような知・言葉」とは何か。それは生活世界の中にない言葉だ。ということは、もっと端的に言えば「概念的語彙」のことだ。つまり、具体的に「ペン」とか「ハサミ」を指し示すような語彙ではなくて、今この場所にないもの(空間的・時間的に飛躍したもの)についての情報を含む語彙だ。

概念的語彙を獲得することは、生活世界の見え方を確実に変容させる。概念的語彙は、生活世界を解釈する基礎になっている、言葉と知の関わり方を変容させるのだから。それは、生き方を変容させることに直結する。豊かにするかどうかはさておき、そういうことが③の意味内容なんじゃないかと。

そんな風に考えると、概念的語彙こそが教養だ、という考え方は、それなりに説得力がある気がする。

 

うん、まだもうちょっと考える。

Taiki Obonai 2014-