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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

「多様性」の前提となるべき「多態性」について

「多様性」への違和感

多様性が大事だという言説は、既に言説ではないといっていいでしょう。特定の誰かが考えている意見ではなくて、一つの社会的常識と化しているといっていいほどに広まっているのですから。

92年生まれの僕は、小学生のころから多様性が大事だと聞かされて育ちました。犯罪や公害などの著しい逸脱が発生しないならば、他者が何をしようが、何を考えようか、どのようなスタンスで生きようが、それを許容すべきという一つの規範を僕たちは共有しつつあります。

「多様性」というワードは僕の周りにありふれていますが、しょっちゅう違和感を引き起こすワードでもあります。

以前にも、こんなブログ記事を書きました。

今回の記事で扱うのは、この記事から二年経って、より一層明確になった僕の違和感と、僕なりの暫定的な答えの話です。

 

「多様性」が意味していないこと

僕たちの身の回りで喧伝されるような「多様性」、すなわち「私たちは他者を許すべきだ」というテーゼは、ひるがえって「私たちは他者に許されるべきだ」というテーゼを生みます。そして最近、この反転をもとに、「やりたいことをやっていい」「やりたいことをやらねばならない」という価値観が若者の間で喧伝されるのを目に、耳にします。僕自身も、このようなことを言うことがあります。

ただ、ここには落とし穴があります。「他者を許すべき」であることは「他者に許されるべき」ということを100パーセント意味するわけではありません。「私」と「他者」はただ単純に交換可能なものではないのです。

「私」と「他者」はともに同じ社会を構成しながらも、異なる様式で存在する存在の単位です。ゆえにx=yなのだからy=xである、というように数的な方法で交換することはできません。

すなわち、「他者を許す」という行為は社会のストレスを低減させ、その間に生まれうる争いをなくす機能があるために社会的に容認される一方、「他者に許される」という行為は社会のストレスを高め、他者に自分を容認させるための度量を要求するという意味で、ある一定の程度を超えては社会的に容認されえない可能性があるのです。

好きなことをして生きていく、とは言っても、人気Youtuberのようにはいかないのが現実です。では、人は社会に迎合して生きていくべきなのでしょうか。自分の欲望を抑圧し、他者を受け入れつつも他者に受け入れられることは多く望まず、つつましく生きていくのが是なのでしょうか。もちろん、何も僕はこの記事でそのようなことを言いたいわけではありません。

 

前提としての「多態性

「他を受け入れる」「他に受け入られる」の二者は、その態において異なっています。すなわち、「私が他を受け入れる」際には、自ら主語として他を受け入れる能動態であるのに対して、「他に受け入れられる」=「他が私を受け入れる」際には、私は他が受け入れる目的語であり、受動態です。

態にバリエーションがあるということは、日本語文法的な意味以上の意味を示唆します。すなわち、社会生活を営む人間にはそれ自体の中に複数性があらかじめあるのです。複数の自己を場面に応じて使い分けること、これが自己の多態性です。

例えば、この場合に典型的であるような他に働きかける自分、他から働きかけを受ける自分といった複数性。あるいは、他を認識する自分、自分を認識する自分、他を認識する自分を認識する自分などといった階層化されていく意識における複数性。

他者と共同して社会的に生きる際、人間には前提としての複数性が仕込まれています。複数の自己を分節して時に応じて使い分け、また人格的には高度に調和と統合を保ちつつ生きていくありさま、それこそが人間が社会生活においてこなしている意識における営みです。

ゆえに、「多様性のある社会」を作るべく、「他者を容認しよう」というメッセージには、それはすなわち「他者の複数性を、自己の複数性をもって容認しよう」というメッセージが含まれているということなります。

 

複数性と場

自己の複数性は、場によって使い分け・切り替えがなされるものです。言い換えると、場こそが自己の多態性を発揮させ、その場面に応じた自己を抽出するきっかけとなるということです。

例えば普段は仲良くしている大学の友達に、真剣なゼミの場では鋭く論理的な批判をする、という人がいるとします。この人は、ゼミの場の目的に調和するための自己の複数性を持っているといえます。彼は、仮にラウンドワンでダーツをしている最中ならば、友人に鋭く論理的な批判をしようとは考えません。卑近な例ですが、場が個人のふるまいを、個人の持つ複数性の中から選択させる形で決定するのです。

時には、場が要求する複数性を、自己の中に見出せないときもあります。例えば、サークルに初めて入会した際の合宿の飲み会で、どうふるまってよいかわからなかった、というような経験は、多くの人にあることと思います。それは、サークルに適応する様式の自己が、自己の中に無かった(=学習されていなかった)ためです。回数をこなすことによって、その場に応じた自己を獲得することができます。

僕個人の例でいうと、テーブルマナーが要求されるような会食などは、いまだに場に応じた振る舞いが出来ている気がしません。それはつまり、自分の中にそうした場に応じた複数性がインストールされていないということです。

 

「多様性」が意味すること

自己の複数性を前提としていない「多様性」なんかクソでしかないと僕は思います。すなわち、何らかの場や条件を持たない「多様性」はクソだと思うのです。

社会生活においては全ての規範やルールは条件付きです。「飲酒運転はしてはいけません」が、「身内が病気で倒れて、たまたま車を運転できるのが自分だけで、どうにかして急いで病院に行かねばならず、救急車を呼べる状況にない人が飲酒後に運転すること」を咎めることはできません。

同じように「相手のことを認めるべきだ」と言われても、認められないときだってあります。「やりたいことをやって生きていく」と言っても、やりたいことができない場面だってあります。欲望の抑圧が求められる場もあれば、欲望の解放が許される場もあるのです。

場に応じて自己の複数性をマイナーチェンジしていく、その中で自分の欲求が満たされる場が、どこかのチャンネルには存在している。そのような社会環境を作ることこそが、真に多様性を担保しうる社会であるように思います。

人間は誰もみな、程度の差こそあれ、他を受け入れたいという欲求と、他に受け入れられたいという根源的な欲求を持ち、社会を構成しています。

だからこそ、適当に手と手を取り合ってWAになって踊って、多様性が担保できたね、俺たちキャラ濃いイェイイェイで終わって、欲求を満たしたフリをするような世の中はダメなんです。

いろいろな場面の中で、複数の自己を使い分けて、良いものは良い、ダメなものはダメ、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、我慢するべきなら我慢、解放できる場なら解放。そしてどこかでピタッと自分自身がハマる場と瞬間を見つけて、そこにカタルシスが生まれるような、そんな経験を誰もができたならば、その社会には理想的な意味での多様性があると言えるように僕は思います。

Taiki Obonai 2014-