僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

社会的構成の中を泳ぐ

現実の社会的構成

大学の学部を卒業する際、卒業論文で扱ったのはピーター・バーガーの社会学でした。彼の主著「現実の社会的構成」(トマス・ルックマンとの共著です)では、「人間が社会を構成し、社会が人間を構成する」「人間と社会の媒介物は知識である」というテーゼが提示されています。僕はこの本の提示する議論をたいへん魅力的に感じました。

僕たちは、お互いにお互いのことを認識し合い、今がどういう状況であるのかを認識し合い、その場にあるルールや適切な振る舞いを推測し合いながら生きている。人が複数かかわる場所を社会と呼ぶならば、社会とは探り合いの連続であり、とてもコミュニケーション負荷のかかる場です。

僕たちは社会という場の中で、「僕」と「君」と「誰か」の存在を構築し合いながら存在するプレイヤーなのです。そしてそのことが、「社会」というフィールドをも規定していく。社会に規定されつつも、社会を規定していく。その無限のループ性の中に生がある。

そういった知見を、僕は「現実の社会的構成」から受け取りました。

 

社会が行われる場

僕は「現実の社会的構成」を何度も読んでいるうちに、この議論には欠如している部分があると思うようになりました。この本の議論では、人間と社会との関係がつれづれと述べられていますが、「社会」を「人間同士のコミュニケーションが存在する場」とするならば、その「社会」が成立するために、「社会が行われる場」が必要になるのです。 

「社会が行われる場」とはどこか。それを考えるとき、僕の頭の中には海と魚のイメージが浮かびます。

僕たち魚は、何層にも分かれる複雑な海の中を、流れに沿って、あるいは流れに抗うなどして泳いでいきます。自分が存在すべき海域を決め、自分が所属すべき群れを決め、自分が食べるべき餌を食べていく。他とのかかわり合いの中で自分が定義されていく。これは社会的分化とか、分業とかいうやつです。こうした海の中で行われる出来事の総体が社会に当たります。 

「魚」が「人間」、「魚達に認識される海の中の出来事の総体」が「社会」、「海そのもの」が「社会が行われる場」だと捉えて、読み進めてください。

 

繋がりの底にある断絶

いま、僕たちの社会はたくさんの繋がりの中にあります。マクロなレベルでは、国家に対抗しうる概念としてグローバルという概念が誕生しました。国家間のインターナショナルな関係が、もはや関係(=異なるもの同士の接触)ではなく繋がり(=同質化)となりつつあるのだ、ということを、「グローバル」なる言葉は示唆しています。

ミクロなレベルでも、僕たちはどんどん繋がりを得るためのツールを手にしています。ツイッターfacebookinstagramの普及は僕たちをどんどん繋げようとしています。繋がりは僕たちの社会的な立場や存在感を確かなものにしているかとも思われます。

ただその一方で、僕たちは孤独感を感じることもあります。時には、孤独感を求めさえします。

繋がりがほしい、繋がりたい、繋がっている、というような状況が生まれるのは、根本的に僕たちが別々のものだからです。初めから同質のものであるならば、僕たちには繋がるという概念すらない。僕たちが原初的に別々のものであり、相互に浸透しきれないものであるからこそ、僕たちは繋がろうとするのです。

繋がりは、深くて絶対的な断絶のもとに成立するものなのです。

だからこそ、積極的に繋がろう、繋がろうとすることは情けないことであるように思われます。キョロキョロと友達を探すような人のことを揶揄する、「キョロ充」というスラングがありますが、これはこのあたりの事情をうまく説明する語です。キョロキョロと見回すその態度に、根本的な断絶が見えてしまうからこそ、彼らは情けないのです。対概念としての「ソロ充」すなわち一人でいても楽しそうな人は、断絶を受け入れているからこそ潔くて格好良いのです。

僕たち魚は、繋がって魚群となろうとする一方で、個々ではただの魚に過ぎないのです。自分のことが分からない人たちが、今日も全国の書店の自己啓発本コーナーで立ち読みしていますが、それは繋がりと断絶の二極の間で揺れる現代にあって、自然なことだと思います。

 

人間と社会

もしも新種の魚が見つかったら、生物学者はどういった手順で調査をするのか。当然、その魚そのものを分析しようと考えるでしょう。その魚に名前をつけ、体を解剖し、色や形の特徴を知ろうとするでしょう。ただ、一匹の魚からわかることはそう多くはありません。より深い調査をしようと思ったら、研究の対象をその魚自体から広げる必要があります。

そこで何を取り上げるのか。おそらく、生物学者は魚の住む環境のことを調査したいと考えるはずです。その魚が住む海域はどこなのか、深度はどれくらいか、水温はどれくらいか、何を食べるのか、何が天敵なのか、など。環境のことを調べることによって、魚自体のこともより詳細にわかっていくのです。

このとき、生物学者が注目しているのは魚の生にかかわる出来事です。何を食べるか、どこに帰っていくのか、魚が日常的にしているであろう行為を一つの出来事として観察することによって、魚のことを知ろうとしているのです。

僕たち人間も、自分のことがわからなくなったときは、自分を取り巻く社会的な出来事を考えればよいのです。自分は社会のうちどのエリアに属していて、何を消費して、何を生産する個体なのか。

人間に対して、社会がいかに作用しているのか。メタな視点に立ってそのことを考えると、自分のことがより明確にわかります。人間のことを知りたいならば、社会が人間に対して及ぼす作用を考える必要があるのです。

(そういった意味では、自己啓発本のうち、社会的なできごとに言及しないものは不十分なものであることがわかりますね。)

 

社会と人間

そういえば、東京都の選挙PRのコマーシャル動画が、あまりにも軽薄すぎるとして批判を受けていましたね。話題になるという意味では、制作側の狙い通りなのでしょう。今はやりの炎上商法に乗っかりでもしないと投票率が確保できないという状況には、ある種の情けなさを感じますが。

選挙の投票率が低い原因として、政治にリアリティが感じられない人が増えている、ということが一つあるようです。政治だけでない、経済もそう、社会問題もそう、災害もそう、多くの人は「社会のできごと」を知識としてしか知らず、そこに参加している当事者感覚を持っていません。

個々人が社会的なできごとにリアリティを感じるには、どうすればよいのか。

これも先ほどの話と共通するのですが、自分が社会に対していかに作用しうるのかを考えるとよいのです。ある出来事に対して、自分を当事者として投影することによって、リアリティ感覚を得ることができます。

裏を返せば、「話題になりやすい社会的な出来事とは、多くの人が自己を投影しやすい出来事だ」ということです。

例えば秋葉原の連続殺傷事件などは、近年でも最も話題となった事件でしたが、あの事件は加害者・被害者・関係者、様々な立場にたくさんの人が自己を投影した事件ではないかと思います。自分がやられていたかもしれない、自分がやっていたかもしれない、ちょうどこの前行った場所だ、など、たくさんの人が自分の生活圏内に引き付けて考えやすい事件だったのではないかと思います。

一見遠い海の出来事であるように思えることにも、自己を投影して考えることができれば、そこにリアリティを感じることができます。

例えば、イギリスがEUから離脱することをアクチュアルな問題として捉えていない人が、世界中にたくさんいると思います。イギリスがEUから離脱しようがしまいが、明日も変わらず生きていく人もいます。イギリスがEUから離脱することとは関係のない理由で、明日死ぬ人もいます。

その一方で、「イギリスがEUから離脱すること」(=出来事)に直接影響を受け、仕事を失う人もいます。それを原因に自殺する人さえいるでしょう。

大西洋の水流が変わることで影響を受ける魚もいれば、影響を受けない魚もいます。ただ、影響を受けないなりに、どこかに自己を投影することによって、社会的な出来事にリアリティを感じることが可能です。社会にリアリティを感じるには、人間に影響力があることを考えればよいのです。

 

社会と社会が行われる場

ここまで、人間と社会が相互に作用しあいながらお互いを構成していく様子を、それぞれの角度から確認しました。このある種共犯的な図式は、すべて一つの海の中で行われることです。

一見ばらばらに思える魚たちの暮らしも、実は大きな海のどこかで繋がっています。僕たちの暮らしもそうです。お寿司屋さんとポールダンサーと官房長官は、みなそれぞれ住む海域は違うけれど、必ずしも無関係なわけではない。それぞれの海はどこかでつながっています。

そうした関連を、直接の社会的関係に見出すことも、ある意味ではできるでしょう。風が吹けば桶屋が儲かるとか、バタフライ効果とか、そういう発想です。ある一つの出来事がきっかけになって、それが何らかの連鎖を生んで、どこかでは関係しているんだよ、という発想です。

でも、僕はそこにリアリティを感じることができません。

社会的な出来事は相互に関連している、僕たちはみんな繋がっている、とはいうけれど、結局のところ僕たちは断絶のもとに存在しています。この世界に70億人がいて、200か国がある以上、社会的な出来事の関連をすべてに見出すことだって不可能です。

だからこそ、僕たちの生はどんどん島宇宙化しているともいわれます。ローカルなコミュニティに依存した生、マイルドヤンキー的なあり方の生、それらは否定されるべきものではありません。でも、もし、僕たちが全体としての社会を想像しようとしたり、繋がりを見出そうとしたりするならば、どうしたらよいのか。

そのとき、いったん「メタ社会」である「社会が行われる場」に引き戻して考えたらよいのではないか、というのが僕のちょっとしたアイディアです。全体としての「出来事が行われる場である海」への想像力を豊かに持つことによって、人間から社会への作用、社会から人間への作用が、より明晰になるかもしれない、と考えているのです。

魚と、海の中の出来事のことを、海のサイズ感にいったん引き戻して考えてみる。メタな社会を想像してみる。それは、水面に出ることを意味します。メタな次元から、人間と社会のありようを観察する必要があるのです。

 

 

この辺の発想を、論文じゃなくて漫才とコントにしました。7月2日、明日神戸でライブします。おこしやす。(宣伝)

Taiki Obonai 2014-