僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

「逆張り」に逆張り

哲学においても科学においても、「正しさ」をどう扱うかについては多くの議論があります。どんな「正しさ」も暫定的に正しいだけであり、修正や補足を必要とするものである、とする真理観が現代においては支配的なのではないでしょうか。

僕自身、「正しさ」には常に疑いが付されるべきだと考えます。どうしてそれが正しいと言えるのか。どこまで客観的なのか。何を、どうして前提としているのか。あらゆる正しさには、その背景に何らかの証明できない前提(=公理)があります。

例えば、数学の証明は、排中律矛盾律が成立することを前提にしています。排中律の成立や矛盾律の成立については、「記号的にそう定義されている」という以上の根拠がありません。排中律矛盾律は一つの公理であり、論理的に数学記号を運用するための前提です。

すると、ある数学の証明について間違いがあるとすれば、それは公理以降の記号操作において生じるものだといえます。公理そのものが誤っている可能性はいったん保留することによって、真理を真理として措定できるのです。「公理」とは当たり前のこと。疑いようのない、絶対に正しいこと。そこからシンプルに論理を重ねて、何らかのことを言ったり、考えたりすることができる。何事も情報のリソースが大事である、といわれる現代のSNS環境と似ていますね。

 

そういえば、SNSについて思うことがあったのでまとめておきます。SNSにおける「逆張り」についてです。いったん背景の事情を整理するところから始めます。

SNSで「いいね!」や「シェア」を得ることは、情報発信に対する一つの報酬だとみなされています。自分が発信した情報に価値があったことが証明されたような気分にもなれます。僕自身、自分の投稿が広まることについて、悪い気はしません。情報が拡散すること=「バズる」ことは、一般に好ましいこととして考えられています。

当然、何かしら自分の意見や思想を発信する願望がある人や、あるいはアフィリエイトで金銭を得たいと考えている人たちにとっては、「バズ」は勲章みたいなものです。ネットメディアは現在、誰もが「バズ」を求めてレースしている状態です。

僕はそこまで高いモチベーションでSNSを使っていないため、「バズ」を求める人たちの波には乗り切れないところがあります。ツイッターを5年、はてなブログを2年ほど使っていますし、それなりの更新頻度を保っていますが、こと「バズ」に関しては、波打ち際で膝を抱えて眺めているような感じです。

何事も距離を取ると見えるものがあります。そうした「バズ」について落ち着いて考えてみると、一定の傾向や条件があることがわかります。思うに、手っ取り早く「バズ」を作る方法は、「逆張り」することです。

 

常識や一般論に背を向け、ちょうどその逆の持論を展開する。それが「逆張り」です。

 

拡散される情報には何らかの価値が必要であり、その価値とは意外性・面白さにあたるのでしょう。「常識に反する」ことは、そうした価値の必要条件なのでしょう。「逆張り」は情報に価値が置かれるこの時代にあって、一つの有効な戦略といえます。

 ただし、ただ常識に反することを言うだけでは、非常識な人で終わってしまう。名のある人が非常識なことを言えば、「炎上」という罰を受けます。名の無い人であっても、非常識なことを言ってしまえば、仲間内から白い目で見られたりします。

 そうならないよう、バズを作るためには自論を擁護するために強固な論理や、モラルや信念を持ちだす。あるいは古典なり知識人の名句なり、もう少しちょっと名のある人の言葉を借りる。そういったことが必要になります。逆張りを強化する戦略ですね。

 そうして強化された、正しい「逆張り」をする人に対しては、「格好いい」「本質を突いている」「人と違う意見を持っている」というような効果的な評価が為されることが多いです。

 

ただ、僕は無闇な「逆張り」によい印象を持っていません。問題は「逆張り」そのものは、情報発信/拡散の上での戦略であって、「正しさ」に肉薄するための手段ではないということです。

 「逆張り」的な主張は、正しいかどうかとは全く関係ない尺度で拡散され、デマや妄言や思い込みを助長してしまうだけであるように思います。本当に正しいことは、公理までさかのぼって問題を認識し、一通りの前提を組み立て、そこからシンプルな論理で展開された、シンプルな構造のもとに主張されるべきものです。ああだこうだ理由をつけて、流行に乗りたいだけの「逆張り」をしていては正しさには肉薄できません。そう考えて、今後とも「逆張り」に逆張りしていこうと思います。

Taiki Obonai 2014-