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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

ロングパスな社会的善

野球かサッカーかでいえば、僕は野球派の人間です。それでも、いざサッカーの試合を見るとなると興奮を覚えます。

流れるようなプレーの連続の中。幾重にも張り巡らされた戦術の伏線。あるとき、ふいにスイッチが押され、勝負所での挑戦的なプレーへ。スポーツの熱さが、疾走感あふれる形で表現されるのは、サッカーの素晴らしい競技特性であるように思います。

ただ、今回の本題はそんなに疾走感のある話ではありません。どちらかというと長くてゆっくりとした時間的スパンの話題です。

 

僕は現在、京都大学の大学院で研究・勉強しています。京都大学という大学それ自体にはとても愛着がありますし、いま取り組んでいる社会学の諸問題についても、それなりの情熱を持って接しているつもりです。

ただ、なんだか没頭しきれないところがあるのです。なんだか、心のどこかで、頭のどこかで、自分の地元のことが気がかりになることがあるのです。

僕はもともと青森県八戸市という港町で生まれ育ちました。決して小さな町ではありませんが、同時に決して大きな町ではありません。20万超の人口を抱えながらも、人口の流出や老年人口の増加に頭を悩ませている町です。

京都大学にあって、京都という地に立って、その学的伝統にのっとりながら勉強することは、確かにとても意義のあることです。もしかしたら、自分に何らかの才能があって、研究でちょっとした実績を上げることもできるかもしれません。

それでも、それがなんだか郷里から分節されたものになってしまいそうで、いやだなあ、怖いなあ、と最近思うのです。

 

地元に戻りたい、と考えたことは一度もありません。研究職を目指している以上、働き口は当然関東や関西などの都市圏が主になることでしょうし、僕もそのことを望んでいます。労働者として地元に帰れないことについては、一定の覚悟と理解をもって、京都に出てきたつもりです。そのように割り切って考えているとは言え、自分が取り組んでいることが、もしかしたら一切地元に還元されないものとなるかもしれないと思うと、なんだか心苦しい思いがあります。

きっと、郷里の利益となることの中には、いま自分にできることもあります。青森県に帰ってボランティアをすることもできるでしょうし、何らかの町おこし活動に参加することもできるでしょう。

それでも、僕はそうした行動を取るつもりはありません。

自分はこのままもっと勉強を続けて、十分なスキルと実績のある研究者となり、その専門性をもって、しかるべきタイミングで地元に貢献するのだ、と考えているからです。それが一番、地域社会にとっても、もっと広い意味での社会にとっても、自分の能力を還元する効率的な方法だと考えているのです。

おそらくこれは一つの傲慢であり、若さゆえの青写真なのだろうと思います。これから僕は研究におけるたくさんの壁にぶつかっていくのだと思います。

 

ロングパスな社会的善。僕はいつボールを蹴るのでしょう。ようやくピッチに出たところです。まずはゲームメイキングから。

Taiki Obonai 2014-