僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

読書をめぐる「教養」「成り上がり」「挫折」

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「教養」

「教養」は衰退した、滅びたと言われる。「教養人」は少ないと言われる。今の若者はものを知らないと言われる。

じっさい、京都大学の学生でも、ウィトゲンシュタインの名を知らない人なんていくらでもいるし、カナダの国旗が分からない人だっている。見てて、話してて、どうなんだろう、と思うこともある。

そもそも何をもって教養と呼ぶのか。このことについては、色んな人が好き勝手色んなことを言っている。ただ誰が述べる教養論にも、ある種の懐古主義が見受けられる。

 

かつてはこんな時代があった。
幅広い学問分野について基礎知識を持っているべきだった時代が。
常識・良識として共有されるべきものは押さえておかないと恥ずかしかった時代が。
そういう教養についての感覚があった時代が。
今の若者は無知に加えて知的好奇心に乏しく嘆かわしい。

 

そんなことを色んな人が言う。まあ、「教養」についての語りなんて、研究職の人たちや市場経済のレジェンドの人たちからしか発信されないのだから、それ自体が物凄く偏ったものであることは間違いない。昭和の大学生が常識としてフロムを読んでいたなんて、絶対嘘っぱちだ。アーレントを読んでいないと話についていけなかった、なんてのもデタラメに決まってる。仮にそういう集団があるとしても、それは極めて知的ハイソ空間に決まってる。

そういうことが、大学院生になった今はわかる。だけど、大学に入学した頃の、あるいは大学に入る前の僕には分からなかった。本気で「教養」が無いとあかん、と思っていたのだ。

 

「成り上がり」

たぶん何かの本に感化されたのだろう。大学に受かってすぐ、僕は大学生たるならば相応の教養がなくちゃいけないと信じ込んだ。ギリシャ哲学と、フランクフルト学派と、啓蒙思想と、ドイツ観念論と、現代思想と、ポストモダン文学と…その辺を押さえておかないと、そもそも学問の土俵に立てない。だから頑張って読書しなくっちゃ。そんな強迫観念が僕の頭にこびりついた。

そうして、僕は色々な本と格闘することになった。ウィトゲンシュタインを読もうとした。キルケゴールを読もうとした。カントを読もうとして、ヘーゲルを読もうとして、アーレントを読もうとして、デリダを読もうとして、プラグマティズムを読もうとして、ハイエクを読もうとして、とにかく、乱読に乱読を重ねた。

結局、どの本もよくわからなかったし、自分が教養人になれている実感もなかった。そのことは少し僕を失望させた。

①ただ、色々な事態をきっかけにして、身の回りの京大生が教養的読書をしていないことに、僕は気付いていった。考えてみれば、入学して早々に今の日本の総理大臣が分からないっていう京大生に遭遇したのだから、教養的読書なんて殆ど誰も取り組んでないことを、僕はもっと早く察するべきだった。

②というかまあ、同世代の大学生全般について、教養のみならず専門を含めた勉強へのモチベーションは低いように思える。なぜだろう?よく言われるのは「大学の勉強が実生活に役に立たないから」だけど、それが原因ではないと思う。役に立たないゲームや漫画はあんなに面白がるんだから。もっと何か構造的な問題があるように思う。

 

結局、青森県に生まれ、身の回りに何らかの学問を修めようという人間がいない環境に育った僕には、ある種の知的文脈コンプレックスがあったのだ。こんな田舎の学生なんかよりも、都会の人たちはずっと勉強している。なんて環境に恵まれないんだろう。自分で勉強するしかない。もっと考えなきゃ、もっと本を読まなきゃ…。そういう「成り上がり」的な発想から、僕は自分自身にオーバーワークを課していたのだった。

今思えば、古典を買うタイミングは早過ぎた。まとまって分かりやすい解説本や新書から始めるべきであった。あるいは用語集を買えばもっとマシだったかもしれない。本を読む順番にも問題があった。時系列を追うか、問題関心に基づいて並べるかのいずれかをすればよかった。僕はどちらも思いつかなかった。

③結局、「成り上がり」になろうとしているうちは、自分の学びを俯瞰するだけの余裕がなかったのだと思う。「教養」それ自体が性質として主観を離れたメタ的なものであることを考えると、自分の学びをプランニングできるようになることそれ自体は教養の芽生えかもしれない。

④そもそも読書ってのは成り上がるためのツールではないし、処方箋にもならない。すればするほど自分って頭悪いかもなと思う機会が増える。田舎コンプの奴が成り上がりたいなら、かる~くゼロリスクの起業でもすればよかったのかなと今は振り返る。

 

「挫折」

僕の読書は、ほとんど全てが無駄の多いものだった。必要以上に難解な本を、必要以上に難解な形で読み、分からない部分を飛ばし飛ばし、その都度挫折しながら読み進めていく。結局一冊を通して何を述べた本なのかが分からず、また挫折をする。再読しては挫折をする。

それでも、そうした種々の挫折は無駄ではなかった。ゼミに参加したり、卒業論文を執筆したりするようになって自覚したことなのだが、僕の挫折は、ある種の基礎的な知的体力となっていたのだ。

それらの挫折が、さまざまな話題、論点に直面した際に、自分がそれを分析するための視座を提供する場面がある。たくさんの挫折が集まって、一つの知見のようなものを形成する場面がある。それらは総体として、まさしく「教養」としか呼びようのない力となって自分を支えてくれるのだ。

僕の「教養」は、まだまだ心もとないサイズ感で、小突いたら崩れてしまいそうなものだ。もっともっと豊かで、もっともっとしなやかなものにしていきたい。そのためにも、たくさんの誤解と誤読と挫折を積み上げていく中から、自分の学問的素養を骨太にしていきたい。

⑤骨太さとしなやかさは両立するんだろうか。

考えてみれば、昔の大学生がサルトルやらフーコーやらを、正確無比に読めていたわけはない。「読書における挫折」は、オールドスクールな意味での「教養」としてもド王道なのだろう。今日から大学院一年目のスタート。たくさんの文章を読み、積極的に挫折していきたい。

⑥一年ほど前に教育哲学者の苫野一徳さんと少しだけお話したとき、そういう旨のことをおっしゃっていたのを思い出した。

Taiki Obonai 2014-