twitterにおける社会学者の振る舞い
ネット文化に疎い社会学者・社会学学習者が、時折twitter・まとめサイトなんかで、自ら玩具にされにいってるのを見る。社会学やる以上、社会に対して高い感度を持っていた方がいいに決まってる。無闇やたらに大衆に遊ばれるのは、炎上マーケットの一環か何か知らんが、賢くも美しくもない。
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月9日
「社会学」の「社」の字も「哲学」の「哲」の字も知らん、大学教育を受けた気配もしない人らが、鬼の首を取ったかのようにクソ社会学者・クソ社会学学習者を叩いてるのは、もう構図からして地獄絵図。
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月9日
社会学に何か他の学問と際立って違う利点があるとしたら、それは真理値をいったん括弧に付す技術を内在化していること。ある命題について、それが真理であるか否か以外の観点から考察することができること。それ無視して、「社会学は役に立たん」「社会学者は非常識」みたいに言われてもしゃーない。
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月9日
個性
人間における個性なんて神様or社会の視点に立てば誤差に過ぎないものであって、尊重すべき理由はないなあ、とふと。人間一人一人に個性を認めてあげられるのは宗教でも社会システムでもなくて個人個人に過ぎないなあとふと。
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月8日
だったら個人を尊重するみたいな文言が教育や政治の文脈で飛び交うことにどういう意味があるのかなあ。社会システムの側が「個人」を尊重することって、できるんだろうか。
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月8日
高木関連
スポーツ選手って、野球や相撲みたいなエリートスポーツであればあるほど、世間の常識や慣習から隔離された場所で、ティーンを過ごしてしまうわけで。結果的に悲しいくらいモラル感覚のない人が多くなってしまうのかもしれないね。
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月8日
スポーツ選手たちって、特に子どもからはクリーンなイメージを持たれやすいけど、筋肉型ヤンキーの延長に居る人も多いわけで。女・賭け事・酒・薬なんかにズブズブの人はいくらでもいるんだろう。夢のない話だ。
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月8日
新高木マジか!左の中継ぎ一枚減るって結構なことや思うよ
— t.obonai (@twobonai) 2016年3月8日
反復
最近思うのですが、高校までの学習では「反復すること」が重視され過ぎているように思います。何事も繰り返しやれ、だとか、覚えるまで・身に着けるまでやれ、と聞かされ、それこそが勉強だと信じる人も少なくないです。
— t.obonai (@twobonai) 2016年2月24日
もちろん、物事を繰り返しこなすことで身に着く能力もあります。ある種の身体性を帯びたスキル獲得をゴールとして、手が記憶するまで計算をさせる授業などは全国で行われていることと思います。それらは一定の効果もあるかと思います。
— t.obonai (@twobonai) 2016年2月24日
ただし、学びの中には身体経験から離れたものがあることも事実です。想像することの学び、体験できないことの学び、反復できないからこその学び、そういったものも貴重なはずです。
— t.obonai (@twobonai) 2016年2月24日
よく世の中では「偏差値だけの優等生」のような言葉が使われます。学歴だけの奴は無能だ、そういうレッテル貼りの際に積極的に用いられる言葉です。偏差値なんて無意味だ、偏差値なんて一面的だ、そういう主張を含む言葉です。
— t.obonai (@twobonai) 2016年2月24日
どうやら、「偏差値」が「反復」のみによってでも、ある程度以上まで向上してしまうことに問題があるように見えます。反復不可能な、身体的でない知性を身に着けるには、どうしたらいいんだろう。身体のみで覚えたことは、いつか身体からはがれ落ちてしまう。
— t.obonai (@twobonai) 2016年2月24日