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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

髪を切って考えたこと

雑考 短い 日常生活

今日、結構伸びていた髪を切った。

 

書道家か、売れないバンドのベーシストか、アウトローな浪人生か、ヒッピー気取りか、そんな見てくれになっていた髪を切った。何てったって、本を読むときに邪魔で仕方ないのだ。社会学研究者になりたい自分にとって一番大事なことは、髪の毛を伸ばすことではなく、社会が人間にどんな作用を及ぼしているかを明らかにすることだ。もしかしたら先月くらいに、「このまま女性に見えるまで伸ばそう」とか思っていたかもしれない。だけど切るったら切る。そう決めてからは早かった。

 

少し赤錆がついてしまったハサミを取り出して、鏡を見ながら、黙々と作業を始める。僕は髪を基本的に自分で切る。カミソリとか、バリカンとかの器具が必要な場合と、自分では切りづらい後ろ髪を切る時だけ、こっそりお店に行く。それ以外は、基本的に自分で切るようにしている。自分の身体だから、自分でけじめをつけたいと思っているのだ。

 

けじめをつける瞬間というのは、それが宿題であれ、人間関係であれ、髪の毛であれ、一種の爽快感が伴う。髪を切る事にも、一般に爽快感はあるのだろう。ただ、僕が髪を切ることに爽快感を覚えたのは、最近のことだ。

 

僕は、けっこう長らくにわたって、髪を切る・切られることが物凄く苦手だった。

 

「髪を切る」ということに、心の穢れを取る、生活をリセットするなどといった、「みそぎ」の意味合いがあることは、子どもなりに理解していた。とはいえ、それでもなお、自分の身体の一部を切り取られるということには心的苦痛があった。髪を切る前の自分と、髪を切った後の自分とで、何か決定的なものが変わってしまうような恐怖があった。

 

当然、髪を切ることに、肉体的な苦痛は伴わない。髪に神経は通っておらず、髪を切られたところで「痛い」とは思わない。放っておいたら伸びるものなのだから、ある一定の長さになったら切るべきであるということも分かる。

 

それでも、自分の身体の一部を、「みそぎ」のために生贄として捧げることが苦手だった。「身体の一部が持って行かれる」ことに何らかの意味づけが為される。「髪を切ってさっぱりしなさい」みたいなフレーズを、口をそろえて全ての大人が言う。それらに、どこか個人の生活空間を超えた概念、宗教的なものの存在を感じた。宗教的なものとは、僕にとってとてつもなく恐ろしいものとして体験された。「今のお前のままでは存在してはいけないのだ、存在の様式を変えろ」と言われているようで、とてつもなく息苦しい思いがした。

 

それでも髪は切らなければならない。中学生くらいの頃からだろうか、時たま自分で髪を切るようになった。どうせ「みそぎ」として持って行かれるならば、自分の手でそうしたい、と思ったのだ。何度か泣くほど失敗したけれど、しだいにスキルは磨かれて行った。今では、ある程度自分がしたい髪型にすることができるようになった。自分がしたい髪型になったときの爽快感は、物凄いものがある。髪を切る前と髪を切った後で、自分の存在の様式は変化する。その変化が思い通りにいくのであれば、それは当然悪いことではない。結局、人間は何でも自分の思い通りに行く(あるいは思い通りに行っていると思い込む)限りにおいて、何をしても幸せなのだろう。

 

すると、もしかしたら、僕があの頃恐れていた「宗教的なもの」の正体は、社会通念とか、常識とか、伝統とか呼ばれるものなのかもしれない。個人の上にあって、個人の行動を制約したり、価値観を規定したりするようなもの。「自分がしたいこと」を闇の中に隠してしまったり、「もともとあったもの」にヴェールをかけて、違うものに見せかけてしまうような、外側からの作用。

 

それらにばかり意識が向くことは、身体の一部を失うことに怯えていた少年時代も、はさみを手に取った中学生の頃も、今も、これからも同じだ。考えてみたら、ずっと僕は同じだ。

Taiki Obonai 2014-