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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

「答えがない」とかいうクソみたいな表現をやめませんか

雑考 日常生活

問のあるところに答えあり。

僕は色々な物事に苛々するし反感を覚える人間なのだけど、その中でも特に「答えのない云々」にはすっかり呆れ果てている。それらは物事をちゃんと考える気のない人間が使う免罪符に過ぎないんじゃないか、と思う。

例えば、大学に入る前には、「大学の学問には答えがない」というようなことを散々聞かされた。身の回りの大人から、学校の先生から、同級生から、テレビから、新聞から、散々に聞かされた。当時から物凄く疑わしく思っていた言葉だけれど、今はもっと疑わしく思っている。正しい問のある場所に、正しい答えはあるものだ。「答えがない」なんてチープな言葉で学問を言い表すのは安易でしかない。

いや、もちろん、学問は未知の世界を開拓する営みなのだから、学問的な問の多くは、未だ答えが見つかっていない問だ。それらの中には、答えるための材料が現在揃っていない場合もあるだろう。だけど、それらは答えが存在しない、ということを意味していない。正しい問いかけがあれば、正しい答えは必ず出せる。そもそも、問と答えというのはそういうものだ。問と答えの厳密性を重視する近代以降の学問において、答えのない問など、立てようがないに決まっている。

大学の学問に答えはない、などと決めつけるのは、そもそも答えを求めていないことの証でしかないんじゃないか、と思う。正しく問を立てる気がなく、正しく答えを出す気のない人間の発言に他ならないんじゃないか、と思う。だから、僕は学問の話題において「答えがない」というマジックワードを易々と使う人間のことは、少なくともその話題においては信用しないことにしている。

(たぶん、この辺の事情は、入試のテストのような解が事前に想定されている問を「答えがある問」として、それ以外を「答のない問」とする無邪気でアホくさい分類に基づいているのだと思う。今現在答えがあるかどうかは、答えの存在そのものとは全く関係ない話だ。)

 

「答えのない」で上がるハードル

もっとも、これは別に、客観性を重んじる学問の世界に限った話ではない。主観的な意見が求められる会話の中でも、「これには答えなんてないと思うけど…」のような言い回しを飽きるほど聞いてきた。

 

「人間が生きる意味は?」
「これからの社会で生きるには何が必要なの?」
「教育って誰のためにあると思う?」

 

「いやあ、これには答えなんてないと思うけど…」

 

こういう言葉遣いにも、物事を考える際の態度が間違っているのではないか、と僕は思ってしまう。この辺は言葉の問題なのだと思うけれど、「こたえ」なる言葉には少なくとも二つの方向性がある。

一つ目は、「正答」「解答」、つまり正しい答え、という意味。あらゆる問について、最終的に目指される「こたえ」は「正答」だ。二つ目は、「回答」「応答」、つまり私の答えという意味。 上記のような一般性の高い問について、ひとまず目指される「こたえ」は「回答」だ。

この後者の意味での「こたえ」を求めている場面で、前者の意味での「こたえ」ではないことを確認したがる人が嫌だったら嫌だ。アンタに正答なんぞ求めていないのだから、「答えがない」のようなしょっぱい免罪符を喰らわせてくんじゃねえぞ、と思ってしまう。そんなことはこっちだって百も承知なんだ。

それとこれも言っておくと、「答えがないけどね…」のような免罪符を初っ端に見せつけてくる人間が、問を揺さぶるような個性があり、賛否の分かれるような衝撃のある言葉を発するのを聞いた試しがない。「答えがないけどね…」と大見得を切ってハードルをブチ上げたなら、「教育は子供のためにあると思うよ」みたいな凡百の常識論を言うな。絶対に言うな。

(ついでに言うと、僕は何事も「中庸」で片づける人にも疑わしく思う。「中庸がいいよね~」というのは当たり前のことだ。そもそも「中庸」の意味は「ちょうどいい真ん中」という意味であって、本当に50%の部分のことを意味しているわけではない。「何事もちょうどいいのがいいね」なんて当たり前のことだ。「中庸」が口癖になってしまうと、脳が腐る。)

(それとこれもよく気になることなのだけど、正解が複数ある問のことを「答えがない問」と言うのは本当によくない。正解が複数あろうが、正解と間違いの区別ができるならばその問いには答えがある。一般に「答え」には範囲があるもの。例えば数学なら、3以上6以下が正答、の場合は3も4も5も6も正答。答えが複数ある、というだけで「3も4も5も6も答えじゃない」とされてしまうのは問そのものに失礼。)

 

「答えのない問」を作る方法

ちなみに、「正答が存在しない問」を想定することは可能だ。哲学をかじったことがある人間ならすぐに思いつくことだが、問い方に誤りを含ませればよいだけだ。例えば、【一人の人間が、右を見ながら左を向く方法】などは答えがない。右と左は対になる方向なのだから、それを同時に満たすような方向は存在しない。

他にも、【日本の国王の血液型は何型か】とか【首都である新潟の現在の気温は何度か】みたいな問いには答えがない。日本に国王はいないし、新潟は首都ではない。

 

「日本の国王の血液型は何型なの?」

「答えはないけどね、たぶんA型だよ」

 

答えよりもまず問の吟味

結局、世の中にある「答えのない云々」の表現っていうのは、全て「答え」の意味を狭めたり、「答え」にあまりにも権威を与えすぎたりして、問と答えのバランスが崩れたところに発生する表現なのではないかと思う。

僕は別に、こういう風潮の原因が答えが一義的に決まる学校教育にあってウンチャラと言いたいわけではない。何というか、単純に「答えのない~~」みたいな言い回しに飽き飽きしているというだけだ。ノイローゼになりそうだ。

本当にその問が「答えのない問」であるなら、つまり、正答がなく、応答することもできないようなものであるならば、そんなクソみたいな問に本気で向き合って頭を使う必要は全くない。

まともな問ならば、それが問である以上、そこには何らかの答えがあるものだ。

ということは、僕たちは答えがどうのこうのと四の五の垂れる前に、まずは問い方を吟味しなければいけないのだろう。こんなこと当たり前のことなのだけど、僕を含めた多くの人間が、あまり出来ていないことでもある。大学生くらいの年齢の人が集まって話す場に行くと、本当に強く思う。答えを出すよりまず問の吟味、答えを出すにはまず問の吟味。

 

それにはまず、言葉に強くならないと。ということで春休み、僕は言葉の勉強をしようと思います。

Taiki Obonai 2014-