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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

理想の社会を考えるために必要な足場

社会学の詐欺

社会学を勉強しています」というと、ある種の理想社会的なことを考えているのではないか、と思われることが多い。左翼なの?と思われることもある。実際のところ、社会学という学問は脱構築的な性質を持つ学問であり、その思考法は何かの理想に寄与するのに向いていない。一般的な社会学の思考に基づけば、「○○こそが理想の社会だ!」という言説は、「その人はそう思ってるんだね」程度に片づけられる。

これは、「社会学」なる名前が抱える一つの詐欺かもしれない。「社会学者」を自称するコメンテーターの罪もあるだろう。

実際のところ、社会学は社会をどうすればよいかを語る言葉を、そんなに多く持っていない。現実を鋭く分析し、まだ浮かび上がっていない問題点を露呈させることに長けた学問だ。社会科学の一番バッター、という言葉を何かの雑誌で目にしたが、言い得て妙だ。社会学は現実を素早く分析するのが得意なのであって、即効薬を出すのは苦手なのだ。出塁はできるが、一人で点を取れるホームランバッターではない。

社会学を勉強しているわけではない人に、このあたりの事情を説明するのは難しい。「社会学」という名前が抱えるある種の詐称的イメージのせいで、というか、おかげで、というか、理想の社会とは何か、という問に出会うことが多くなった。社会学の言葉では、理想の社会とは何かを語ることは難しいが、理想の社会を考えるために必要な足場を提供することは可能だ。理想の社会とやらについて考えてみよう。

ウェーバー的なもの」と「デュルケム的なもの」

社会学を勉強しようと思えば、避けて通れない人物がマックス・ウェーバーとエミール・デュルケムである。物凄くざっくりと述べるならば、ウェーバーは個人の意識が社会現実を構成するという議論を定位した人物であり、デュルケムは社会現実が個人に作用するという議論を定位した人物である。

社会学に限らず、何かしら社会にまつわる勉強をしようと思ったら、頭には「理想の社会」だとか、「社会の改善」だとか、そういうワードが浮かぶ。ウェーバー以降、長きにわたって社会学は比較的「理想」から距離を置いた学問だった。理想に捉われると、正しい社会像を分析できなくなるためだ。だからこそ社会学研究の対象は、現実の分析、人々の認識の分析なのだ。

とはいえ、どれだけ理想から距離を置こうとも、それでもなお、僕たちは「理想」から完全に自由にはなれない。ウェーバーもまた真ならば、デュルケムも真である。僕たち個人もまた、社会に影響を受ける存在だ。

だから、研究であれ、結社であれ、運動であれ、僕たちが社会的な営みを企てるときには、少なからず理想なるものが脳裏にある。僕たちは完全なる価値自由、価値相対的な存在になることはできない。

ここで、僕はウェーバーとデュルケムのどちらが正しいか、どちらが勝っているかを考えたいわけではない。理論的な論争は数知れず積み上げられてきたが、実際の社会現実が、ウェーバーとデュルケムの二項対立になるようにできているわけではない。社会理論は現実を見抜くための視座であって、フィルターであって、現実そのものではない。現実そのものに目を向けてみよう。

すると、感覚的に、「ウェーバー的なもの」も「デュルケム的なもの」も一定の正しさを持っていることが分かる。僕たちは社会を作っていると同時に、社会の中に存在している。考えてみれば当たり前のことだ。

1960年代以降、社会学ウェーバーとデュルケム、ウェーバー的なものとデュルケム的なもの、ウェーバー的な社会認識とデュルケム的な社会認識との融合を図ってきた。すなわち、個人が社会を作り上げるのでも、社会が個人を作り上げるのでもなくて、その間に相互作用があるのではないか、と考えて来た。あるいは、一方を一方によって完全に包摂して議論しようと試みてきた。

ここで一つ問を立てよう。理想の社会を考えるために必要な足場はなんだろう。ヒントは、当然個人と社会の関係性にこそある。

「個人」と「社会」

個人としての理想と、社会としての理想は異なる。包摂される主語の数、影響を受ける目的語の数、総体としてのダイナミクス、様々な要素において、個人と社会は性質を異にする。社会が個人の総和に近い状態ならば、もっと話は早かった。1人の人間を観察すれば、10人の人間が分かるような状態だ。これを仮に集団と呼ぼう。

個人-集団、この相似的な関係がある程度見られるかもしれない場面は以下のようなものだ。1人のジャニオタを観れば、10人のジャニオタの行動もある程度想定できうる場合。10人のツイッタラーを観れば、1人のツイッタラーの行動もある程度想定できうる場合。均質性の高いコミュニティを観察して、個人を微分したり、個人を観察して、その所属するコミュニティを積分するような場合を言う。

が、当然ながら実際問題として、個人と社会は相似ではない。1人のジャニオタを見ても、10人のツイッタラーの行動は予測できない。主語となる成員の質は多様を極める。相似ではない図形が二つあるとき、片方の図形は、もう片方の図形の面積なり、外周なり、何らかの特徴について何をも示唆しない。『個人のみ』から『社会のみ』を描き出すことはできないし、『社会のみ』から『個人のみ』を描き出すことはできない。

だからこそ、『理想の社会』を体系立てて、論理的に語ろうとするとき、僕たちは主語としての自分をなるべく離れなければならない。だけど、僕たちは完全に主語から自由になれない。価値観や立場、自分が過去体験した出来事から、自由になることができない。

「社会」を諦めてはいけない

結局のところ、僕たちはどこまでいっても個人なのだろうか。『社会』なるものは存在しないのだろうか。単なるハリボテとしての社会がそこにあって、僕たちはまるでプラネタリウムに映る星々を、何とか星雲だとか何何座だとか名づけるような感覚で、『社会ってこうだよね』『世の中ってさ』のように話しているのだろうか。

もしそうならば、いっそ『社会』を諦めるべきだ。そして、自分としての主語、主語としての自分にいっそう根付きながら言葉を紡ぐべきだ。『社会なるもの』の成員がみな、それぞれに正当なボリュームで声を発したならば、それは民主主義を掲げる『社会なるもの』の理想となる。ところが、もちろん現実には、声を発さない人たちがいるし、声が大きすぎる人たちがいる。

これは、社会が社会たること、社会を諦めてはいけないことの一つの証左だ。僕たちの社会は現前と存在していて、個人に有意な個体差を与えている。語彙、知識、役割、制度、様々な意味において、僕たち一人一人の社会成員は、社会によって構成されている。これは、社会によって歪められていると言ってもよいし、社会によって矯正されていると言ってもよい。

だからこそ、理想の社会を考えるときには、社会的な視点、全体的な視点、大局的な視点、構造的な視点を捨ててはいけない。それを見失った主張は、どれだけ個人的な正当性があっても、社会的な正当性を得ることはできない。

 

「個人」を諦めてはいけない

それならば、僕たちは『個人』であることを諦めるべきなのだろうか。しかし、それはまた誤りを含む。現象学の中でも最も有名な議論として、個人が個人たる事実は、身体感覚に依拠すると言う議論がある。僕たちが人間として実在していて、他者なるもの、他者なる外界が存在するという事実は、他者から与えられる身体感覚によって保証され、常に強化されるという議論である。

もちろん、現象学の文脈で『個人であること』が意味するのは、実存としての個であるという意味合いが強く、社会との対比に基づくものではない。だが、この議論は社会が存在すると同時に、個人が存在することを立証しうる。僕たちは社会によって構成される目的語であるとともに、社会を感じる・受け取るための主語でもあるのだ。

 だからこそ、理想の社会を考えるときには、主語としての個人、感覚を感じるものとしての個人を見失ってはいけない。社会的な営みは、常に個人にフィードバックされる。その在り方について、丁寧に考える必要がある。

理想を解体する視座として

世の中にはたくさん、理想を語る言葉が溢れている。僕は最近、そうした言葉に違和感を感じてならない。社会としての理想のみを追求する言葉、個人としての理想のみを追求する言葉、そのどちらかしかないように思える。

だけど、僕たちの現実は社会と個人の両極にあるのではない。その相互作用に、折衷に、絶え間ない交換の中にある。

だからこそ、誰かが何か理想を語る言葉の中に、社会的な理想と個人的な理想の両方を見抜けないならば、その言葉は信用しない方がいい。

 

少なくとも-こう考えることで、ほとんどの詐欺は見抜ける。

Taiki Obonai 2014-