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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

「生きやすさの社会学」を構想する

社会学

社会学と哲学の違い

先日のゼミにて、教授が印象的なことを述べていた。大学二年生が参加する専攻決定のためのオリエンテーションの場で、「社会学と哲学の違いは何か」と問われ、答えに窮したというのである。このエピソードは、「社会学とは何か」という問についてここ数か月悩まされていた僕にとって、非常に示唆的なものであった。

社会学と哲学の類似性に関する言説は、しばしば目にする。大まかに言ってしまえば、哲学の方がより原理志向であり、社会学の方がより現象志向である、とはいえるのだが、この説明は十分ではない。社会学の中でも原理志向の分野があり、哲学の中でも現象志向の分野がある。社会をシステムによって説明することを構想したルーマン社会学は、社会学と言う範疇の中で考え得る限り最も哲学的であるし、近年は臨床哲学の必要性が主張され、哲学が医療や教育などの領域に大々的に進出しているが、そこで根本問題になっている「自由」「権利」などのタームは、社会学の領域でもまた根本問題である。

結局のところ、学問と学問を差分によって区別することに、何ら意味がないのかもしれない。同じような対象に対して、異なる接近の仕方をしている、というだけなのだ。行為としての質的な違いは小さい。特に僕は、ある程度実存的なモチベーションを持ちつつ、社会学を勉強している。このような人間にとっては、社会学と哲学はより一層近しいものとして立ち現れる。現象を観つつ、原理を思索する。考えてみれば、あらゆる学問がそういった性格を持っているに違いない。全ての学が、原理を志向する哲学から派生したものであることを考えても、哲学と諸学を明確に区別しようとする方が筋違いなのかもしれない。

社会学とは何か」について僕は悩んでいた。この問いは、裏返せば「社会学とは何ではないか」という問でもあった。人間の営む学問が、学問の方法を用いて真理を追究する限り、そこには一定の共通性があってしかるべきなのだろう。自分を煩わせた問が氷解するのを感じる。

生きづらさの社会学から、生きやすさの社会学

そのうえで、では、自分はどのような社会学を構想し、どのような社会学を語っていけばいいのだろうか。学的な営みというのは、全て先人の達成を足場として進行していく。僕が最初に省みねばならないのは、これまでの社会学であり、その近縁としての諸学である。

これまで、社会学マックス・ウェーバーが打ち立てた客観的な観察者としての学、という性格をある程度保持しつつも、当事者の学、としても機能してきた。女性差別を主題とした一連の研究は、いくつかの恣意的な差別を浮き彫りにし、女性の社会進出に一役買った。その社会的・経済的な意味での功罪は別の文脈で問われうる(例えば、女性の社会進出が進んだことが少子化に直結したことなどは、国家運営上は負の面と評されることもある)としても、少なくとも一定の主語に対して、一定の社会正義を全うする研究であったことは評価すべきだ。

このほかにも、様々な分野において、社会学は社会的な弱者、ルーザー、不当な不利益を被る人たちに対する目線を持ってきた。ある種、社会学のかなりの部分が、社会的に産み出される生きづらさへのカウンターであったともいえる。マルクスなどはその典型であるといえよう。

現代という時代性を考慮するとき、この国やこの世界には生きづらさを抱えた主語が無数に存在する。グローバル化、アメリカ型個人主義の広がり、ギデンズ風に言うならば個人の脱埋め込み化が、僕たち一人一人を、いとも容易く裸にした。もはや、「女は」「男は」「労働者は」といった伝統的人間観を根拠とする主語が、以前のようには機能しない社会になっている。一人一人が抱える生きづらさが、高度に独立したものとなっている。

共有されるべき大きな物語の崩壊、あらゆる権威の相対化を経て、人間は個人として生きることを強いられている。国家や地球市民社会といった大きな秩序にスタビリティを感じることも、期待することも、もはやない。シーンを賑わせている音楽は「SEKAI NO OWARI」だったりする。

この時代性を鑑みて、僕は「生きやすさ」を主題とした社会学を構想する。特定性の低い主語、あらゆる個人が、大きな秩序よりも豊かな小さな秩序を選択し、その豊かさの中で「生きやすく生きる」ような社会を考えてみたい。

 

…的なことを、卒業論文で仄めかす(に留まる)予定。

Taiki Obonai 2014-