僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

「社会学とは何か」との格闘

社会学とは何か

大学に入ってから、社会学という学問をそれなりにきちんと勉強してきました。もともと学者になりたくて飛び込んだ大学です。勉強しなきゃ、勉強しなきゃと焦る思いもありつつ、それなりに楽しみながら勉強を続けてきました。「何がしたい」「何になりたい」ということは公言した方がいいだろうと考え、ことあるごとに「自分は社会学研究者になりたい」とあらゆる場面で発言してきました。

そんな時、「へえ、面白そうだね」「がんばってな」というようなポジティブな反応とともに、当然のように付随してくるのが「へえ、社会学って、そもそも何なの?」という質問です。

実は、「社会学とは何か」についての学問的なコンセンサスは、まだ十分にはありません。沢山の人が沢山のことを主張していますが、それぞれに自分のフィールドの意義を強調しようとする形であることの弊害か、社会学とは何か、社会とは何か、についての明確な答えは得られていないのです。

僕にだって、乱暴な定義ならできます。「社会の構造や機能を観察する学問」とか「日常性、当たり前のことを解体する学問」とか「人と人、人と社会の関係を考察する学問」とか、適当なことならなんだって言えます。ただ、どれも外延的な定義に過ぎず、ある種の正解であり、ある種の不正解。なんであれ定義というのは内包的に行われるべきです。ああ、この問に答えたい。

 

学問を定義する困難

学問というのは、理論と実践、理論Aと理論B、実践Aと実践Bが絶え間なく対比されたり、結び付けられたりしながら構成され、発展していくものです。だから、ある一部を取り出すことによって、「これが社会学だ」と述べることはできません。そうである以上、ある学問がどんなものであるかを定義しようとするときには、学問を具体的に構成する物を列挙する外延的な記述は十分ではありません。

このことを確信させられる出来事が最近ありました。ある社会学者の方のツイートで、「定量的研究ができない学者に意味はない。文献研究に意味はない。」という旨の記述を見たとき、学生の身分でおこがましいことですが、なんと一面的な理解だろう、なんて無教養な発言なのだろう、と思ったのです。

先にも述べましたが、学問というのは所詮は複数の対立する観念や考え方、イデオロギーを内包しながら、その弁証法的な統合をもって進歩していくものです。定量研究は定性研究や理論の組み立てがあってはじめて意味を持つものであり、自分の研究フィールドだけを重んじ、他を軽んずる姿勢は学者としてあるべきではない姿だと感じたのです。

かと言って、僕自身は社会学が何であるかについて答えることができない。他人が言うことが不十分だとか、不適切だと言うことは判断できても、では何ならば十分なのかを見極めることができない。いかにして内包的な定義をすればよいものなのか。ああ、この問に答えたい。

 

成果はあるものの

今まで自分は、それが何なのかも分からないものを学んできたのか、と思うと暗澹たる気分にもなります。それでも、これまでの学びには、自分の中での明確な位置づけと収穫があり、決して質の低いものではありませんでした。学問を職とする人生において、まあまあなスタートを切る事が出来たのではないか、と考えています。

目に見えているものに、それ以上の意味や構造を見出そうとする社会学の観点は、日常を「そこにあるもの」から、「ある意味においてはそこにありえないのに、ある意味においてそこにありうるように矯正されているもの」に変えます。社会学的思考は、日常を絶えず解体し、解釈します。この勉強を始めてから、僕の物の見方が大きく社会学によって変容したこと、それはこの4年間の一つの成果だと考えています。

例えば、ニュースの報道や討論番組のコメント、ツイッターfacebookでの発言などを見ていても、「これは一面的な理解に過ぎないぞ」とか、「ここには何かしらの偏向性があるぞ」といった、情報や意味付けの恣意性に気付くことが多くなったこと。今まで何となく「変かもしれないけど、まあこんなものか」と通り過ぎて来たことについて、ある程度注意が行き届くようになりました。

あるいは、身の回りの、特に同世代の他者の発言や行動について、ある程度の類型化をもとに理解し、理解したうえで受け入れることができるようになったということ。きちんと学ぶ前ならば、自分の価値観のもとに否定し、退けていたような人たちについても、それなりの理解をすることによって、共感できずとも受け入れられるようになりました。これは単なる学びを超えて、人間としての生活にも十分還元されうる進展ではないかと振り返ります。学問的な成長と、年齢による心理的成熟が噛み合ってきたことは、学問を職としたい自分にとって非常に嬉しいことです。

でも、自分にこれだけのものを与えた「社会学」が何であるかについては、自分はまだ納得できる言語化された答えに辿り着けていないのです。ああ、この問に答えたい。

 

卒業論文を契機に

さて、日本の人文系の学部では、4年間を総括するものとして、卒業論文の執筆があります。僕もまた例外にもれず、卒論執筆を控えています。最近は、卒論執筆を意識して古典や論文にあたっています。卒論では、自分が専攻している社会学の学説史研究を行おうと計画しているのですが、僕はその中から、社会学とは何か、社会学が何を問題にしてきたか、社会学がいかに有効なのかを発見していこうという狙いがあります。

まさしく、自分が問題だと思うことについて、論文を書くという形で解決をはかりたいのです。

なるべくならば、自分が学ぶ学問の広い分野を尊重しながら勉強したい。そのために、僕は卒論研究を通して、社会学に対するある内包的な定義、イメージに辿り着きたいと考えています。では、社会学を内包的に記述しようとしたならば、どのような言葉を、どのような順序で、どのような関係付けによって用いるべきなのでしょうか。

こうした事情から、最近はずっと、「何専行してるの?」「社会学」「社会学って何?」という会話に続く、簡潔かつ完璧な答えはどのようなものなのか、考え、考えあぐね、また考えているところです。ああ、この問に答えたい。

Taiki Obonai 2014-