僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

産みの苦しみと消費の快楽

産みの苦しみ

男性の心と身体に生まれた僕は、出産の苦しみを経験することは一生ありません。それでも、「産みの苦しみ」なるものは理解できます。母親が子を産むときに限らず、僕らは何か新しいものに出会おうとするとき、あるいは自分の中から何かを湧き上がらせようとするとき、多大なる苦労に直面します。

たとえばそれは、何か文章や作品めいたものを作り出そうとするときに、イライラとして顔を出します。自分の中からわきあがろうとしているものと、外界との間に生じる摩擦が、ズキズキと痛みに変換されていく瞬間を、誰しもが経験していえるはずです。

あるいは、日頃のコミュニケーションの中でさえ、僕たちは言葉を紡ぐ苦労を感じます。それら日常的なものも、一つの「産みの苦しみ」の形であるように思います。

生きるということは、誰かによって、あるいは何かによって産み出された現実を生きるということ。僕たちが何か具体的なプロダクトや、人間間の関係を結びだすとき、一定の苦労を経験することになるのは、一つの必然でしょう。

そして、そうした苦労によって構成されるのは、まさしく「現実」や「日常」などの言葉で定位されるような、今・ここにあるべき僕たちの生存の様式です。僕たちの生存は、一定の産みの苦しみのもとで成立しているのです。

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誰かに消費される心・身体・時間

僕たち生存するためには、一定の空間的な根拠としての家、住所、時間的な根拠としての年齢、戸籍、そして生きるためのパスポートとしての金銭を持つ必要があります。そしてそれらを安定して維持するためには、労働ないしそれに相当する習慣的行為を、生活に組み込む必要があります。

その意味で、僕たちの心や、身体や、時間は、常に誰かの容赦なき消費にさらされているといえます。僕たちが自由に、自立して生きる事が出来るのは、何らかの消費に耐えうる場合に限ります。すなわち、ある一定の心・体・時間を投資することによって、他者ないし他者的なものに対して何らかのプロダクトを供給できる場合に限って、僕たちの生存は社会的に保障されうるのです。

この構造について、マルクスが見識ある議論を展開したことは、言及する必要もないほど知れ渡っていることでしょう。マルクスからアルチュセールへ、あるいはその後の現代思想の大波へ、人間の生産と消費については、多々の議論が為されてきました。そしてそこでは、僕たちが生きるために消費されていること、あるいは時に、消費されるために生きてさえいることが、悲観的に描かれることもしばしばでした。

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消費の快楽

僕たち人間は、己の生存の為に被消費の地獄に耐える一方で、同時に何かの消費者でもあります。僕たちが一人一人、かろうじて独立して存在しているように見えるのは、ひとえに僕たちが生産者であるという側面が、消費者であるという側面によって隠蔽されているからです。

僕たちは、何かを消費するとき、確実に快楽を得ます。そしてそこに他者の産みの苦しみが介在すればするほど、消費物の価値は高いものとなります。「他人の不幸は蜜の味」とはよく言いますが、現実は「他人が苦労して作った蜜はうまい」といったところでしょうか。

僕たちの消費の快楽は、具体的な生産物のみならず、話題にも及びます。2010年代の日本は、"炎上"なるものに踊らされ続けています。世間は絶えず、何かを何かのかどで批判し、非難し、時に再評価しながら、話題を消費し続けています。そこには、一定の快楽が伴います。他者がせっせと苦労している様子が透けて見える場合、それは"炎上"にとって都合の良い燃料となります。思い出すべき例には、誰も困らないでしょう。

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産みの苦しみは共感になるか

快楽に溺れた者は痛い目を見る。この教訓は古くから文学、演劇、音楽、美術、あらゆる表現においてテーマとなってきました。今日、僕たちは消費の快楽に溺れてしまっているように思います。

僕たちは今一度思い出さねばらないはずです。僕たち自身が、生産者でもあるという事実を。すなわち、消費されてもいるという事実を。生産と消費が、その総量が釣り合うという意味合いにおいて、生産者と消費者は、まさに対等な、交換可能な立場にいるはずなのです。明日燃えるのが自分かもしれない、だからおとなしくしていよう、と思うことは、現代において非常に功利的な考え方です。

ただし、一方で僕たちは僕たち自身として、一定の自立のもとに生きるべきです。そしてその自立の際にも、他者への豊かなアクセスを失ってしまっては、元も子もない。消費の快楽だけが他者へのアクセスとなってはいませんか。そう自分に問いかけ直す今日この頃です。

ここに答えがあるとすれば、それは産みの苦しみへの共感でしょう。他者もまた、自分のようなものなのだ、と考えられるかどうか。禁欲する必要はありません。が、真摯に生きる必要はあります。生産と消費の間で分裂しそうな自己を、快楽によって押しとどめるのはやめましょう。生きるべくして生きる。そのためには、まずは他者への共感性を基礎にせねば。

そんなことを考えながら、読書の快楽と苦しみにひたふける、今日この頃です。

Taiki Obonai 2014-