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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

【まとめてみた】現代のコミュニケーションを類型化してみた

雑考 社会学

想像力の地平から

シュッツやルックマンに代表される、「現象学的社会学」と呼ばれる分野の社会学理論では、他者が自分の目の前に存在する状態こそが日常性の基礎であるとされています。つまり、僕たちの日常的な生活感覚は、他者が目の前にいて、その他者とコミュニケーションを取る事から構成されていくのだ、と考えられているのです。カジュアルなコミュニケーションが、日常のカジュアルさを演出する。僕たち一人一人の心理的基礎から、総体としての社会の図式が浮かび上がって行く、とても面白く美しい議論です。

この種の議論の中では、「客観的な現実」「事実」の存在性は、いったん疑問に付されます。僕たちの主観的な領域での解釈、判断、推論、観察、そういったもののみが「とりあえず事実であるかどうかは置いておいて存在する」といった程度に、現実の絶対性が留保されるのです。

ここには、現実は人間の想像力のたまものである、という発想があります。人間はある事物や状況に直面したとき、その意味するところを、過去の経験や直観から想像します。他者が想像していることは何であるかを想像するところから、他者とのコミュニケーションを取ります。僕たちの現実は、まさしく僕たちの想像力によって支えられている。そうした含意を、この手の議論は鮮やかに僕たちに提示します。

さて、こうした議論の意味するところを、現代という時代性と結びつけたうえで考えるならば、どのような面白味が浮かび上がって来るでしょうか。何回かの続き物の記事として書くつもりです。

今回の記事では、僕たちとは異なるコミュニケーション状況において生まれたこれらの理論を念頭に置きつつ、他者の存在・不在に着目しながら、僕たちを取り巻くコミュニケーションについて考えてみることにします。もちろん、想像力を働かせながら。

実名の他者との不在型コミュニケーション

シュッツやルックマンの議論が趨勢を極めたのは1980年代です。当時のコミュニケーションを取り巻く状況は、現代とは大きく異なっていました。すなわち、シュッツやルックマンの議論が妥当性を十分に持ち得る程度に、対面的状況のコミュニケーションの重要度が高かったと考えられるのです。当時、対面的でない状況においてコミュニケーションできるツールといえば、電話や手紙程度だったわけですからね。

さて、一方で現代においては、コミュニケーションツールの発達に伴って、目の前に他者がいないときのコミュニケーションは、さらに便利かつ容易になっています。このことは、交友関係の拡大として、あるいはLINEなどに依存してしまう交友関係の歪みとしてとらえられています。対面状況ならば身振りや手振り、表情などによって多くの情報を伝達できる一方で、LINEでは画一的な文字の送信にとどまってしまう。だから、LINEだと自分の気持ちが誤解されたり、ついつい相手を怒らせたりしてしまう、というのは、多くの若者が経験していることなのではないでしょうか。

このことには、電話や手紙と比較すると、SNSでは言語領域以外で伝達可能な情報量が、非常に矮小化されているという背景があるのではないでしょうか。対面状況におけるコミュニケーションでは、僕たちは様々に言語以外での、重要な記号的伝達を行います。たとえば、笑いながら「ふざけんなよ」という言葉を発する時には、言葉としての「ふざけんなよ」よりも表情としての笑い顔の方が、記号的価値は高いはずですよね。(僕はここで「記号」を、文字や数字などの記号だけでなく、何か情報を伝えるもの、程度の意味で用いています。)

こうした言語以外の記号的伝達について、例えば手紙や電話であれば、筆跡や声色などによって、柔軟に表現のバリエーションは残されているのですが、LINEやツイッターではどうでしょう。その人の個性が現れるような記号的表現に乏しく、画像などでやり取りしない限り、極めて言語領域に限定されたコミュニケーションがなされるほかありません。

だからこそ、LINEやツイッターでは、小さな言語的摩擦が、煽り合いや喧嘩に発展するような事例が多いのではないでしょうか。言語のみに特化したツールであるということは、そのぶん使用のための体力消費は少なく、楽で便利なツールではあるため、僕たちはどんどん依存していくわけですが、そこには置き去りにされたものもあるのですね。

ここまで述べたように僕たちの世代は、確かにLINEやツイッターに大きく依存して生活しています。が、一般にコミュニケーションツールとしてのSNSへの信頼度は決して高くはありません。例えば『LINEで告白するのはおかしいよね』『ツイッターで本音つぶやくわけにもいかねえな』といったような考え方は、僕たちの世代に広く共有されているはずです。

つまり、SNSによって行われるコミュニケーションは、カジュアルな日常生活の中の、本当にカジュアルな領域に限定されている、ということがいえるのです。このことは奇妙な示唆を含みます。すなわち、僕たちがSNSに大きく依存できるのは、僕たちの日常のコミュニケーションのうち大部分が無意味的だからであって、特に意味あるコミュニケーションは、対面状況にまだぽつんと取り残されているという示唆。すなわち、SNSが流行ったのは、コミュニケーションとして無意味な領域を、カジュアルに消費しただけだからだ、という示唆です。

以上のことを踏まえると、SNSによるコミュニケーションの特質が浮かび上がってきます。

すなわち、以下の二点です。

①一見コミュニケーションの多くの領域を侵食してしまったように思えるSNSは、実はむしろ、カジュアルなコミュニケーションのみに稼働領域を限定している。

②そしてそのことが、従来的な対面状況でのコミュニケーションの地位が、以前として高いままであることを助けている。

匿名の他者との不在型コミュニケーション

LINEやTwitterは、原則として実名ないし極めて個人が特定可能であるような、自己開示のオープンな形を取るコミュニケーションです。だから、しばしばそれは狭いコミュニティの中での、何気ない会話の維持機構としてのみ機能するものとなります。「金の切れ目は縁の切れ目」などということわざもありますが、現代ではこう言い換えられるわけです。「フォローの切れ目が縁の切れ目」「トークの切れ目が縁の切れ目」などと。

一方で、自己開示性の低い、そもそも「縁」を生み出さないようなコミュニケーションのツールも存在します。特に代表的なものは、2chであるとか、Yahoo!ニュースにおけるコメント欄であるような、匿名掲示板の類でしょう。これらはその閉鎖性、独特の文化であるとか、その是非・功罪など、様々な角度から議論の話題となっています。

匿名の他者の存在感が増したのは、2chまとめサイトと呼ばれるサイトの拡大が原因でしょう。

2chまとめサイトというのは、匿名掲示板である2ちゃんねるの中で、特に情報的価値が高いもの(あくまでもこれは、多くの人が興味を持ちそう、という程度の意味合いです)をひたすら拾い上げて掲載していく、というブログ形式のサイトです。最近の政治や経済のニュースはもちろん、投稿者の日常的な出来事、ちょっとした生活の知恵など、話題と呼ばれるものはあらゆるものを網羅するものです。

そこでは、匿名掲示板独特の「煽り合い」「悪口」「スラング」などの要素は、都合よく排除されています。(ここで都合よくというのは、ある程度掲示板の空気を出すスパイスとして、保持されるものもあるためです。それらは閲覧者に不快感よりはむしろ面白味を与えます。)

すなわち要約するならば、2chまとめサイトは、2chそのものには何となく空気が悪そうだし入りがたい、だけど掲示板的なノリの良さは味わいたい、そして日常の話題をカジュアルに消費したい、という人々の欲求に、最も的確に答えるサービスなのです。まとめブログの利用拡大には、本当にえげつないものがあります。

僕たちの世代にとって、ニュースサイトといえば、ほとんどまとめサイトを指す、というのが実情ではないでしょうか。ポータルサイトのニュースページや、新聞社のページなども、閲覧する人は閲覧するのでしょうが、かつてほどの存在感はなくなっているといえるでしょう。というのも、政治や経済などのお堅いニュースならばいざ知らず、日常的な話題、便利な生活の知恵、ちょっとした失敗談や小話など、三面記事に載るようなネタについては、こと2chまとめサイトが優れているからです。

僕たちの世代は、ある特定のニュースや話題を知る際にも、そのニュースの原稿だけを目にしているのではないのです。そのニュースについて、「匿名の他者」がどんなリアクションをしているのか、ということを込みで、情報を受け取っているのです。

ここには、僕たちのニュース感覚についての示唆が含まれています。すなわち、僕たちが知りたいのは、ニュースにおける情報そのものではない、ということです。そのニュースが僕たちにどのような影響を与えるのか、あるいはそのニュースに対して僕たちがどのようにリアクションすべきなのか、それこそが真の興味なのです。ニュースそれ自体が消費されず、井戸端会議の話題としてのみニュースが消費されるような状況を、仮に「ニュース・ニヒリズム」と言うことにしましょう。

この「ニュース・ニヒリズム」の状況を招いたのは、まぎれもなく昨今の政府や企業による虚偽の報告の連続、あるいはテレビや新聞における「ヤラセ」「デマ」「問題発言」の相次ぐ告発に他なりません。結局、メディアなんて信用できないんだ、一番信用できるのは隣人のリアクションなのだ、という冷めたリアリズムが、僕たちの広く共有されているのです。

「ニュース・ニヒリズム」の時代においては、掲示板における匿名の他者に象徴されるような、「同時代人」への想像力は増大します。ある出来事、新発売の商品、野球チームの勝敗、そのあれこれについて、人々は同時代人と共にジャーゴンを創造し、仲間内での合言葉を作り、あれは良い、あれはダメ、あれはヤラセ、とレッテル張りをし、画一的な反応を示して行く。僕たちが消費したいものは、話題ではなくて、そうした話題に対する反応に他ならないのです。

だからこそ、こうしたまとめサイトはSNSと高い親和性を持ちます。まとめサイトの記事が、カジュアルな話題消費に飢えているSNS上で拡散されていることは必然的なのです。

対面状況でのコミュニケーション

さあ、改めてここで、対面状況でのコミュニケーションについて考えてみましょう。コミュニケーションのうち、コミュニティ維持のためのカジュアルなやり取りはSNSが、話題消費のためのカジュアルなやり取りはまとめサイトが、その守備範囲を担っていることを述べてきました。では、対面状況でのコミュニケーションでは、今なにがなされているのか。

まず何と言っても、序盤に述べた通り、重要なコミュニケーションの一部は、いまだに対面状況の方が良いとされています。たとえばプロポーズや好きな人への告白、あるいは別れ話、ちょっとしたトラブルへの対処、注意などです。これらにSNSのメスが入るのは、まだまだ先のことであると思われます。これらは現在、ある種の「聖域」となっていますね。

一方で、SNSやまとめサイトに浸食されている「カジュアルな領域」についても、僕たちは対面状況で話すことだってあります。ただ、そこには必要性は存在しない。だからこそ、僕たちは話題が尽きると、対面状況であってもSNSやまとめサイトを開くのです。ファミリーレストランなどで、若者の4人くらいのグループが、みなスマホを開いている光景などを想像すれば、理解に難くないでしょう。

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ここまで述べてきたことを整理すると、以下のようなマップが浮かび上がることがわかります。

 

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こうして整理すると、まとめサイト自体が担っている位置自体は、新しいものではないようにも思えてきます。というのも、かつてのゴシップ誌やコンビニ本と、守備位置が丸被りしているためです。ただし、それらと比較した際、他者のリアクションこそが全て、という他者への想像力の肥大は、当然注目に値すべき変化です。また、ニュース・ニヒリズムという時代状況(これは検証が必要なものではありますが、少なくとも僕たちの実感としては確実に存在します)による上方シフトも興味深いです。

表の左側に目を向けると、私的領域のコミュニケーションが、無意味な方から順番に、SNSが浸食してきたが、一定のところで壁にあたった、というような図が見えてきます。どうして対面状況は聖域なのに、新聞やニュースは聖域とならなかったのか、という問題も浮かび上がります。

Taiki Obonai 2014-