僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

無知の知から可知の知へ

橋下徹の敗北

少し前の話題になります、大阪都構想にはじまり大阪都構想に終わる形となった橋下徹劇場が終幕しました。大きな注目を集めた都構想の是非を問う住民投票は、きわめてわずかな差によって否決となり、橋下徹は現在の大阪市長職の任期終了ののち、政界を引退することを表明しました。

僕の周りは、世代的に、あるいは思想的な風潮として、大阪都構想については賛成派が圧倒的に多かったのです。そのために、大阪都構想は恐らく可決されるのであろう、橋下の時代はもうしばらく続くのだろう、と考えていました。しかしその見込みは大きく外れる結果となりました。

もっとも、僕は橋下徹、あるいは維新の会に特別肩入れするような思想を持ってるわけでも、特別反対するような理由があるわけでもありません。大阪に居住実績もありません。ですから、この一件については、珍しい鳥の生態を観察するバードウォッチャーのような気分で観察していました。確かにその鳥が死ぬことには惜しいと思う面もあります。一方で、競争の中で敗れいく者が存在することもまた、道理であると考えることができます。今は、祭りが終わったような気持ちでいます。

今回、ブログで取り上げたい内容もまた、もはや幻となった鳥の生態についてではなくて、扱われ方についてです。

というのも、今回の件に関連する特別番組であるとか、周囲の反応を見るにつけて、僕が気になったことが1つあったのです。それは、「無知の知」を言い訳にする人々の存在です。テレビで特集番組を見てみると、大阪の有権者の以下のようなコメントにたくさん遭遇します。

私は知らないから...

よくわからないから...

難しくて...

彼らの存在は、確実に投票の結果を分けたと思います。いわゆる浮動票、それでいて、政治的信条がないがゆえに浮動している票ではなくて、単に情勢について無知であるがゆえに浮動している票の存在です。

今回大阪都構想橋下徹が倒れたことは、政治史的な意味合いもあるでしょうが、僕には「無知」であることを是として、知ることを放棄しようとする、一種の反知性主義的な現代人の思考様式の発露であるように見えました。

 

ソクラテスはとっくの昔に死んでいる

ソクラテスは確かに言いました。己が知らぬことを知らない者ほど無知な者はいないと。さて、己が知らぬことを知る現代人は、賢いといえるでしょうか。僕たちはみな、知らないことを時に言い訳にし、時に隠れ蓑にし、時に免罪符にします。Ignorance is bliss「知らぬが仏」とはよく言ったものですね。

ソクラテスはとっくの昔に死んでいるのです。彼が残した思想や言葉について、都合の良い理解が広がった結果、都合の良い解釈を都合の良いタイミングで引き出すためだけに消費されてしまうのなら、彼の思想など、無い方がよいのではないでしょうか。

「物事なんてね、わかってても損するんだよ」

「知らない方が幸せってもんよ」

「あんまり考えなくていいんじゃない?」

このような言葉が、実際に教訓のように語られるのがこの国のこの時代です。無知であることは大いに結構ですが、知ろうとする姿勢を持たないというのは、いかがなものか。知ることをやめた人間に、何かを知ることのできる未来はありません。これは皮肉なことではありますが、現在を再生産するだけで、もはや明るい未来の見えない今の日本、ひたすらに時代を消費していく現代日本にあればこそ、「無知の知的なもの」は、ふさわしい思想的態度なのかもしれません。

 

大学教育に意味はあるか言説

大阪都構想選挙に僕が感じた「無知の知」は、大学教育は職業に直結しないがゆえに意味がない、というような言説にも同じように発見できます。すなわち、「知ること」はできないからこそ、「知ること」自体には意味がないとする態度が共有されているのです。「無知」であることが是となるのは、知ることそれ自体に利益が存在せず、無知であることはむしろ労力を負担しない理想状態であると考えることができるからなのです。

大学教育で人は賢くなれない、知を得ることができないという前提・発想を人々が共有すればこそ、特に教養主義的な学部における大学教育というのは、意味がないものとして立ち現れてしまいます。文学部・教養系学部が現在立たされている窮地を例示せずとも、この話が現在の大学事情と関連することは明白でしょう。

(そもそも、『文系の学問には答えがない』というようなクソ間違った言説が広く普及していること自体がおかしい。それが「答えがないから求める必要がない」というニヒリズムに直結しているんじゃないだろうか。「文系の学問には答えがない」と考えることは、「理系の学問ならば何にでも答えがあるに違いない」と考える姿勢と同じくらいバカげてることに、僕たちは気付かないらしい。)

 

ソクラテスをきちんと殺せ

所詮学んだところで何も知ることが出来ない、難しいことは分かり得ないのだから、自分が守備するテリトリーにおいてのみ知的リソースを生産・消費していこうとする態度は、ある種職人的な高尚さをも持ちうるかもしれません。

ただ、僕は提言したいのです。「無知の知」の絶望に浸って、心地よい安寧を手に入れるような生き方をやめよう、と。むしろ、自分は何ものかを知ることができる、何かについて辿り着くことができる、という「可知」を知ろう、と。

「可知の知」を自覚するとき、目の前にはきちんと道が開けます。そこを歩む大義名分も生まれます。何ものも自分には理解できないのだから、知ることから目を背ける知的怠慢に陥ることなく、自分は何かを理解できる、その実感を原動力にして、現代人は生きるべきではないでしょうか。

可知の知は、当然、無知の知を前提としてのみ成立します。何かを知らないからこそ、知ることができるのですから。ソクラテスをきちんと殺さなければ、僕たちはソクラテスをきちんと活かすことができない。そうした考えに立って、きちんと「物事を知る」ことの意味を見つめ直さねばならないのではないでしょうか。

 

ウィキペディアで分からないことは分からないんだ

関連する小話として、この前学生同士の興味深い会話を耳にしました。

「レポートどうする?」

「とりあえずwiki見たけど分からなかった」

「じゃあしょうがないな」

この会話が示唆することはたくさんあります。まず、僕たちの知的リソースが、スマホで検索できる範囲に限定されてしまっていること。そしてウィキペディアを見て分からないことは、分からなくてもいい、という「無知の知」に陥ってしまうということです。

スマホであるとか、タブレットであるとか、おおもとを辿ればインターネットの普及であるとか、確かに僕たちが使える情報リソースは無限ともいえる拡大・発展を遂げてきました。だから、今、僕たちは情報についてとても自由になったかのように考えています。ですが、それは一つの思い込みではないか、と僕は思うのです。

スマホで知ることのできる領域がそれなりに大きいからこその弊害なのでしょうが、スマホでわからないことは分からなくてもいい、スマホで知ることのできないことは自分たちの知的能力の外にあるテーマなのだ、という発想が共有されてしまったのではないか、と思うのです。

あたかも、中学生用の英語辞書を手にした英語学習者が、高校レベルの英単語、ただし知らないと絶対に困るような英単語に遭遇したときに、「俺の辞書に書いてないから覚えなくていいや。」と考えてしまうようなものですね。

ウィキペディアで分からないことは分からない、というのは大きな間違いです。知的リソースは現実にこそ存在しています。僕たちはもっと、頭を使って、身体を使って、心を使って、豊かに学ぶことを覚えなくてはならない、いや、思い出さなければなりません。

 

無知の知から可知の知へ

ここまで述べてきたことをまとめると、
①現在、僕たちの知は「無知の知」の横暴によって矮小化されている
②僕たちは「可知の知」のもとに、きちんと物事を知るべきだ

という二点に、話は集約されます。

思考停止の時代だ、反知性主義の時代だ、と言われます。僕は、この時代を切り開く方法、あるいは、個人が時代から自由になる方法は、たった一つ、「可知の知」ではないかと思っています。自分はまだ多くを知らない。ところが、何かを知ることができる。そう思うとき、初めて知的生活が手に入れられるのではないか、と考えています。

Taiki Obonai 2014-