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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

現代の生の様式について-「共在感覚」をきっかけに

梅も桜も散った。一番長く咲いている、しだれ桜のシーズンも終わった。もう春ではない。京都はここ数日、最高気温25度をコンスタントに超えている。長袖では暑く感じられる。袖の位置が変わった。僕は季節の中で、「あいつ」が一番嫌いだ。だけど、「あいつ」は確実に来る。毎日を生きていれば、確実に来る。

一日一日が着々と過ぎて行くのは事実だ。そこに現実感があるのはなぜだろう。

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『共に在る感覚』

「日常の現実感」について最もまとまった説明をしている学問は、現象学だ。いま、自分が生きているという実感。自分の身体なり心なりが、空間と時間の両方を要素とする世界の中に所在しているという感覚。この感覚について、シュッツやルックマンなど、現象学的社会学とか呼ばれる分野の人らは、次のような説明をする。

目の前に他者がいる。他者と共にある感覚。他者と何かモチーフを共有し合うこと(それは言語でも非言語でもよい)、及び、他者があるモチーフをどのように理解・想定しているかについての一般的な理解感覚。これが、現実の至上性、つまり、今自分が生きている現実は空想や虚構ではなくて、とりあえず信じるに足る現実性を持っているということを担保するのだ。

現代においては、シュッツやルックマンが想定したような「目の前の他者」は大きく拡張されている。具体的な対面状況を伴わずとも、他者が存在することを仮想的に確かめる方法はいくらでもある。Eメールを使っても良い。LINEを使っても良い。Skypeを使っても良い。時空間に影響されないコミュニケーションツールの誕生は、確実に僕たちの持つ「共に在る感覚」について、ある部分ではより敏感に、ある部分ではより鈍感に変容たらしめた。

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共在と共感は違う

「共在の場としての日常」という発想に立つとき、あたかも現実というのは他者との共感の間に生まれる、ある種の馴れ合いの場であるかのように思われる。しかし、共在と共感は根本的に異なる。共在の感覚は、他者への共感のみならず反感をもその根拠としうる。

事例を挙げよう。

僕が通う京都大学は、私立高校出身者と公立高校出身者・共学高校出身者、男子校・女子校出身者、中高一貫出身者と中高別学出身者、都市部・地方出身者が、それぞれ一定数ずつ存在する大学である。4月~5月のこの時期の新入生の会話に耳を傾けると、「私立だから~」「地方は~」「中高一貫は~」「男子校は~」というような言葉がとても多く聞こえる。

ここにあるのは、共在の感覚でありつつ共感ではない。こうした会話の背景にあると思われる、話者のアイデンティティの基礎付けは「俺たち」と「あいつら」の区別に他ならない。「俺たち」と「あいつら」とを明確に区別する線を引き、その向こう側のことを想像したり、こちら側との対比のもとに捉えたりする。そこには共感はない。時に反感さえある。だが、こうした共在感覚のもとに、「現実」「日常」「自己」はより浮き彫りになって行く。

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「俺たち的共在」と「あいつら的共在」

ここで、少なくとも共在の感覚は「俺たち的共在」と「あいつら的共在」に区分できるということが分かる。「俺たち」が時空間を共有することにより共感、アイデンティティの強化がなされる形の共在と、「あいつら」との時空間の断絶による非共感、アイデンティティの強化がなされる形の共在とである。

この観点に立つとき、最近の若者論、世代論が、「俺たち」にとって共感できたり、できなかったりするのが何故か分かる。「若者は狂暴化している」と言う言説をきくとき、いや、俺の周りにはいないなあ、と思うならば、それは「あいつら」型の共在感覚であるし、「若者は読書離れしている」という言説に対して、ああ、俺も本読まねえなあ、と思うならば、それは「俺たち」的な共在感覚になる。

ここで、はじめの話に戻る。

現在、共在感覚の形は多様化かつ重層化している。飲み会の席などで、目の前の人と話しつつ、同時にスマートフォンで不在の他者とコミュニケーションを取るような光景は当たり前になっている。目の前の他者、不在の他者、自分を包み込む身体性に依拠した公共、様々な「場」の論理に支配された生の様式の中を、「俺たち」は生きている。「俺たち」自身を場に応じて引き出したり、使い分けたり、一部だけ切り取ったりしながら生きている。

だからこそ、この「共在」への共感や反感もまた、分裂・分散していく。凶悪事件について耳にしても、その危機性への感度は鈍っていたりするし、政治や経済のニュースについても真実性をもって実感することは少なかったりする。これは僕の、いや「俺たち」の実感として事実であるはずだ。

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「あいつら化」vs「俺たちづくり」

僕たちの生は、その様式の変化に伴って、何もかもが「あいつら」的な共在感覚になっていく、極めてハイスピードな他者化の過程にあるのではないか、と僕は考えている。このとき、自己もまた極めて他者化しうる。ケーキのように自分を切り分ける。寿命を切り売りして、お金に換えて行く。何もかもが「あいつら」的な生の様式になっていくとき、「俺たち」は当然、不安を覚える。

だからこそ、今の時代にあってこそ、「俺たち」を確認するような、作り出そうとするようなコミュニティが流行っていたりする。宗教じみた自己啓発のセミナーや本についても、あながち馬鹿に出来ない。「家族みたいな仲間ができた!」というようなfacebookでの投稿についても、どことなくイラっと来つつも納得せざるを得ない。人間が作る共同体、共感の体系の最も原初的なものの一つは宗教であり、家族である。切り分けられていく「俺たち」が救いを求めるとすれば、宗教や家族のような利益本位ではないまとまりが選択されるのは、ごくごく自然なことだ。

生きづらさからの回避が、たくさんの「俺たち」を産んでいる。オタク産業が、かつてはコンテンツ本位だったが、今ではオタク的コンテンツをもとに人間関係を構築するために用いられている、みたいな言葉を、twitterで見かけたとき、物凄く腑に落ちるものがあった。かつては誰から見ても「あいつら」だった人たちが、「俺たち」になろうとしている。(で、かつオタク的コミュニティは比較的受容度が高く、いわゆるメンヘラとかヤンデレとか、普通のコミュニティに入れないような、「あいつら」の受け皿を準備してにぎわってる感はめちゃめちゃある。)

「あいつら化」と「俺たちづくり」が同時進行で進んでいく世の中は狭苦しい、せせこましい、生きづらい。自己を切り分けるか、結び付けるかの二択を絶えず迫ってくるような思いがする。このせめぎあいには終わりがない。「あいつら」から逃れるために作り上げた「俺たち」もまた分節され、脱構築され、どんどん危ういものとなっていくからだ。

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『共在感覚』のもとに自立して生きるということ

このせめぎ合いを終わらせる方法は一つ。過剰に分節されてしまった自分の身体・心を取り戻さなければいけない。他者との共依存のもとにしか生たらしめないような生は危うい。「共在感覚」は尊いものである。生の基盤である。しかし、他者との共在感覚に依存し過ぎるような生は、少なくとも「自分の生」ではないように思う。

「共在」に依存することと、「共在感覚」に依存することとは違う。前者は自立した生の根本的な形態だ。他者と持ち場を分担し合い、自分の持ち場で精一杯生きるような生き方だ。一方で、後者は自立した生を疎外するものだ。そこには価値を見出せるような思想はなく、終わらない、勝ちも負けもない、せめぎ合いがあるだけだ。

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…みたいなことを、暖かくなるにつれて毎年思う。もう町は春も終わり、初夏の装い。東北育ちの僕が一番嫌いな「あいつ」がやってくる。夏が来る。

Taiki Obonai 2014-