僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

循環の中で、さからわず、擦り減らず、蝕まれずに生きるということ

年度の終わりと始まりに

学生にとってすれば、年度の始まりというのは、ある意味年の始まりよりも、節目を実感する時期です。卒業する人間がいて、入学する人間がいる。卒業した人間はまた新しい枠組みに参加していく。枠組み同士は、複雑に関係し合う。そこには、ある種の循環を見出すこともできます。

京都と言う町は学生の町であり、かつ観光の町です。卒業式・入学式のシーズンは、それぞれ梅・桜のシーズンとかぶりますから、大変混雑します。電車が便利な街ではないので、バスや車、自転車などが大変に混み合うのです。著名な観光名所の周辺ともなると渋滞は必至であり、一向にアクセルを踏めずにいる自動車の脇を、歩行者がそそくさと追い越して行くような光景も見られます。自動車は「自動」車と書くのに、まるで動きやしない。それが滑稽に思えたりもします。

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自動運転車の実用化

そういえば、今週のNewsweekの記事で、自動運転車が実用化された場合、警察官の人数が大幅に削減んされるであろう、というものがありました。

もはや自動車を本当の意味で自動にするための技術的なハードルは少ないのでしょう。一括で自動車を制御し、自動運転を可能にさせるようなシステムが確立すれば、町の風景は大きく変化する、と記事は伝えます。

その一例が警察官の人数削減です。車両取締に警官が(時に必要以上に)精を出すのは、京都に限ったことではないのでしょう。警察官はほとんど交通整理に職務時間を当てているように思われます。そうした仕事がなくなるのであれば、当然、警察官の人数もまた削減されることになるのでしょう。

僕はこの記事を読み、かつては未来、あるいは近未来などといった言葉で表されたような科学の桃源郷が、もはや僕たちにとって本当に手近なところにあるのだ、ということに感銘を受けました。渋滞も恐らく今よりずっと少なく、運転のストレスもなく、さらには町中に監視の目を光らせる警官の存在もなくなるなんて!

しかし、その桃源郷は、本当にただの桃源郷なのでしょうか?浦島太郎を思い出せ。竜宮城に行った人間がどうなるかを思い出せ。何もかもが好転するような変化というのは、なかなか現実には訪れないものです。少しばかり、その「桃源郷」の未来を想像すれば、良いことばかりではないことが伺えます。システムは容易に僕たちを裏切り、暴走するのではないか!そう思えてなりませんね。

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システムと人間

未来を想像するうえで、歴史が物語ることは多くあります。今まで僕たちの世界は、自ら創生した技術やシステムにより、絶え間ない自己変化と進歩を達成してきた一方で、それにより多くのものを疎外してきました。それは原発事故を引き合いにだしても語ることができるでしょうし、例えば不便益の概念を持ち出しても説明できます。

『世界は、循環と調和の中にあるダイナミックな展開過程だ』という理解は、人文知と科学知の両方が見解を一にしている少なくない命題のうちの一つです。僕たちの世界がある点において豊かに、満たされていくことは、他の何かしらの点において貧しく、欠損していくことを意味せざるを得ません。

人間が、あるいは国家が、何か大がかりで、自分のコントロールの及ばないようなシステムを構成するとき、そのシステムが自分に牙をむける危険が生じます。人間の手では為し得ないようなことを為す道具は、基本的に疑ってかかるべきです。それが自分自身に牙を向けた時、人間には制御ができるはずがないわけですから。

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故意に生じた飛行機事故

今週のNewsweekには、故意に生じた飛行機事故についての特集も掲載されていました。パイロットによる、多くの乗客を巻き込んだ、自殺ともいえないような、自殺。その実例が多々述べられていました。

そうした事故を引き起こしたであろう原因として、例えばパイロットの激務であるとか、精神的負担であるとか、何らかのケアの欠如であるとかが容易に想像できます。

システムの中にあっても、なお、人間がシステムに同化できるのは部分的でしかないのだと僕は考えています。ある秩序だった組織形態や構造の中にいても、なお心情的な部分での矛盾を抱えていたり、屈折した形で肥大する自己を押さえられずにいるのが、然るべき人間の姿だと思うのです。

そうした、システムの中で蝕まれた「人間」が発露するのが、そうした故意の飛行機事故のような現象なのではないでしょうか。こうした歴史から僕たちが学ぶべきは、システムの中にあって、かつシステムに蝕まれずに生きるということの意義だと思います。

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生き方を考える

ここでいう「システムに蝕まれない生き方」というのは、現代的な科学技術と上手く付き合っていくことだけに留まる話題ではありません。社会生活の全ての局面に、あるいは生きるということの全ての側面にまで、遍く敷衍されるべきものです。人間を取り囲む世界は、悉くシステマチックに構成されている(と考えられる)のですから。

人間は、巨大な歯車にも例えられるような、大きな社会と自然の循環の中に生まれ、その中に生き、それらに多大な影響を受け、少しばかりの影響を与えながら生きています。畢竟、ここには、循環があるのみです。どちらが先か、ということは、もはや問えないほどの大きな循環。ニワトリとタマゴ問題と同じことですね。ある世界(閉じた系、と言い換えても構いません)の全体像としてのシステムというのは、本義的必然的に循環的なのです。

となれば、その循環の中で、いかに擦り減らずに生きるのか、あるいは上手に自分を擦り減らして行くのか、ということを考えねばなりません。与えられた条件の中で、自分にとって最高のパフォーマンスをする。生きることの全体像は、仕事や勉強やスポーツなど、細かなフェーズと連綿たる相似を共有しています。2番打者が送りバントを洗練するように、会計士が電卓を使いこなすように、循環の中で生きるあり方を見出していたいです。

4月になりました。僕が大学に入学してから4年目になります。まだまだ学生生活は長い予定ですから、焦らず、奢らず、人に比べず、循環に身を浸している意識を持ちながら、かつそこに蝕まれず、信念のもと生きて行きたいと思います。毎年、循環の中で綺麗に咲く桜の花は、一つの示唆であるようにも思われますね。さて、本年度もよろしくお願いいたします。

Taiki Obonai 2014-