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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

仕事についての嘘でもない嘘

僕が目指していた職業は目指してなる職業ではなかった

4年前に田舎から上洛、京都大学に入学して、真っ先に驚いた事実である。学問的な色彩の強い大学に入学したつもりが、周囲に学者・研究者志望の大学生が驚くほどいない。文系だから、といえば片付いてしまうことかもしれない。とはいえ、僕が憧れたような作田啓一は、井上俊は、河合隼雄は、三木清は、いったいどこにいるのだろう。

大学の講義を受けていても違和感が強く残る。「もともと学者になったのもひょんなことで」「入学当時は大学教授なんて思ってもなくて」というような言葉を頻繁に耳にする。分かりやすい結論に至る。学者とは目指してなる職業ではないらしい、と。

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分かりやすい失速

このことが、僕に分かりやすいまでの失速を与えることとなる。人生の方向性を考えた結果、18歳の僕は大学受験に重きを置くことを決意、多少無理をしてでも京都大学に入学しようと画策した。初年度の受験では見事撃沈。勉強不足を責められた思いがした。結果、僕は一年間の自宅浪人を経験する。その一年間はすさまじい疾走感であった。受験勉強に限らず、多様な読書と内省を経験した。

あわよくば、その勢いのままに大学の学部四年間を駆け抜けようと考えていた。しかし、大学、大学生、大学教授の三つ巴、全てが期待していたイメージと異なった。だから、僕の大学生活は、特に前半において失速した。学ぶことの意義がうまく見出せない期間が続いた。研究や学問というものに対して絶大な信頼を置いていた田舎の少年は消えた。それは、例えばパスカルが言うような学問知の矮小さ、アラが目についたからでは勿論ない。単純に、やる気を殺がれた思いがしたのだ。大学に入学してからの2年は、僕にとって分かりやすいまでの失速だった。

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僕が「学者」に期待していたもの

僕が学者という職業に期待していたのは、自由なライフスタイルと闊達な議論、豊富な知的刺激を基盤にして、自己を社会の中に絶えず位置づけ続けるような人生である。同様の特性をもつ職業として、他に芸術家や宗教家が挙げられる。自ら経験したもの、考えたものを、自らの言語で語り、その語り得る言語によって、社会に内在することを許されるような生き方である。僕はそれがしたかった。だから、正直に白状すれば、芸術家でも、宗教家でもよかった。ただそれを選ばなかったから、あるいは選んだことがないから、「学者」になりたいのである。

このような発想について、共感までいかずとも理解してもらえる人間に出会うまでに時間がかかった。それこそが先述の「失速」であった。

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「仕事とは何か」とは何か

どうしてこのようなことを考えているかというと、知人に紹介を受けたとある合宿イベント(リーダー養成プログラム的なニュアンスの)のエントリーに、「仕事」について1000字以内で記述する必要があったからである。今にして思えば、大学入学後に感じた失望や違和感は、恐らくは、あの素朴な高校生が「仕事」に対してあまりにも肩に力の入った発想を持っていたから生じたものだろう。

とはいえ、実は今エントリーシートを書くにつけても、当時考えていたことと同じようなこと、あるいはその延長上のことを書きならべていたりする。当時の自分に監視されているようで、奇妙な心境である。

「仕事とは何か」とは何なんだろう。

 

生きるためには飯が要る。飯を食うには金が要る。金をもらうには職が要る。

 

これ以上に明確に、「生きること」と連結する形で、仕事を定義できるのだろうか。多分、正直に上記のように書いた場合、ESはなかったものとされるに違いない。恐らく他の「受験生」の「答案」には、「生きがいが~」「成長が~」「周囲とのつながりで~」といった言葉が並ぶのだろう。だけど、少なくとも僕にとって仕事とは生きがいでもなければ成長する手段でもなく、周囲との繋がりをもたらすものでもない。

腹が減るから働く、たったそれだけなのだ。

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嘘でもない嘘

結局、僕は自分の思想やライフスタイルとゆるやかに連続し、ゆるやかに断絶したような書き方でESをまとめた。きれいごとを書き並べたくもなく、嘘をつきたくもなく、かといって落選もしたくない、という微妙な心境から生まれた、「嘘でもない嘘」である。

 

研究することの意義、そのことが社会と連結する手段たりうること、自己を社会に内在させるための戦い…。

 

「嘘でもない嘘」とは、僕がこの記述の中に、「別にこれを満たすためだけなら職業にしなくてもいいんだけどね」を書かなかったことである。研究なんて、僕は私費でできるなら私費でやる。金がなくても暮らせる国に生まれたなら、金をもらわないで暮らすに決まっている。だから、このESには重大な飛躍が存在する。(もっとも、ある種の表現を生き方として考えたことのない人間には気付かないような隠蔽だろう。)

こういうことを書き、自分の隠蔽を断罪しつつ、「学者」というライフスタイルが、お金をもらえるものであることを、僕は同時に嬉しがってもいる。もし研究なんかでは金にならないよ、という時代・世界であったら、僕は昼の顔と夜の顔を使い分けるタイプの人生を送っていただろう。そんな面倒なことにならなくて良かった、学者が生き方として認められていて、何なら社会的にそれなりの地位や評価も得ている時代に生まれて良かった。

Taiki Obonai 2014-