僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

生きやすさのための諸人文学は断罪されるべきか

虚構の溶融、裸の現実

現代を、あるいは現代人を特徴付けるものとして、依拠すべき価値規範、言うなれば「大義の消失」が挙げられる。ポストモダン風に、「大きな物語の消失」と言い換えた方がポピュラーなのだが、僕はもっと観念的な意味合いを打ち出したく、あえて「大義」という語句にこだわることにする。

大義なき現代人の生存は危うさの中にある。日常はいつでも非日常たりうる。非日常がいつでも日常たりうる。個人の生存は剥き出しのままに世界と繋がる。ヘマをした者は、twitterを通じて全世界に祭り上げられる。善行をFacebookに連ねることに精を出す大学生は、さながら修行僧のようだ。しかし、彼らが救われることはない。”自分探し”も”自分磨き”も、結局のところゴールがないのだ。

このような生きづらい世の中に誰がしたのか。あるいは何がそうさせたのか。心地よい虚構に浸って生きることのできる世界は終わったように思える。虚構に閉じこもって生きるための隠れ蓑であったはずのオタク文化、サブカルチャー文化は、とうに一般化した。それらは既にサブカルチャーではなく、一つのポップカルチャーとなった。個人の最も基本的な拠り所となってきたはずの家庭や学校や地域共同体にも、今は期待すべくもない。個人を取り巻く日常の環境は剥き出しとなった。現実は裸になったのだ。

いや、そもそも、僕らは初めから裸で生きていたのかもしれない。はるか昔から、スキャンダルは政治家を失墜させるのに十分な材料であったし、犯罪を犯した者は裁かれた。社会生活から死すべき者は、さも必然のように社会的に死んで来た。生きる事の辛さもまた、音楽や文学や美術や、種々の作品群が語るところ、証拠に不足はない。はなから僕らの生存は裸であって、それを守っていたかに思えた種々の結びつきであるとか、社会的な関係であるとか、イデオロギーであるとか、宗教であるとか、理念であるとか、価値観であるとか、そうしたものは全て虚構に過ぎなかったのかもしれない。

とはいえ、人を救う虚構は、それが虚構としてであれ価値を持つはずだ。そこに如何なる批判を受ける余地があろうとも、如何なる幻想が含まれていようとも、虚構が虚構であることによって価値を持つとき、それが虚構であること以上の批判は免れるはずだ。そうした、「機能としての虚構」が溶融したのは、いつからなのだろう。

***

ある学生の話①

-あなたはツイッターを使われていますよね。最近もよく、有名人・一般人問わず「炎上」続きですが…。実際、炎上って怖いものですか?

 

「そりゃあ怖いですよ。twitterとかでも、滅多なことは呟くもんじゃないなって思います。まあ、グレーゾーンのツイートもしたことある気がしますけど…。それこそ、ほら、未成年飲酒とか、それくらいなら、しちゃいうるじゃないですか。一回火が付いちゃうと、消せないですからね。たとえツイートを消去しても、ほら、なんというか、騒動が自分の手の届かない範囲までいっちゃえば、焼け石に水じゃないですか。」

 

-結構大変なものなのですね。大学生になって一人暮らしをされているそうですが、何かの共同体に自分が所属している、という感覚はありますか?

 

「うーん、サークル活動とかをがっつりやっているわけじゃなくて、気ままに生きているだけだからなあ…。大学生同士でっていうのはあんまり…。住んでいるアパートも普通のところで、別に付き合いはないし、まして家族も遠いしね。しいて言えば、大学の同じ学部は仲良しですよ。一緒にゲームしたり、お酒飲んだり、そういうのは。でもねえ、共同体に所属っていう感覚はどうなんだろう…。好きな時に集まるって感じで、別に集まりたくなかったら全然OKみたいな。居場所って感じはするけど、ずっとそこに居るってわけでもないですからね…。」

***

生きやすさのための諸人文学

大学生になって4年目を迎える。僕の周りには、生きやすさのために学問をしていると公言する者も一定数存在し、そうした姿勢に理解を示す者はさらに多い。感度の良い者は、僕がある理論的な着想を得たことを伝えると、「ほう、それで生きやすくなるの?」と返してくるほどである。特に人文系の学部の学生に限って言えば、学問に大義を求める者は、想像以上に少ない。

自分の為に学ぶ、というのは、学ぶ動機としてこれ以上なく純粋である。そこに不純はない。確かに、特に国公立大学などは多額の公的な援助金によって運営されている側面がある以上、一定の社会への還元義務というものもあろう。だから、世の為人の為に学ぶ学生が、それに相応しい、極めて公益的な誉れを受けることもまた必然ではある。しかし、それと同等に、己が為の学びは肯定、推進されて然るべきであるかに思える。立身出世のため、知的好奇心のため、種々の自己本位な理由での学びは、間違いなく賞賛されてきた種類の学びであろう。

とはいえ、生きやすさの為の学び、という言葉には、僕は聊かの違和感を感じる。この違和感は、二つの次元での問題に由来する。

まず一つに、生きやすさという目的に対して、学びという手段が果たして適合するものであるか、という問題がある。生きやすさの実現は、どちらかといえば宗教や芸術など、実生活からの離脱・解脱・トリップを含む文化的営みによって達成されてきた課題であろう。そこに、現世的な要素を大いに含む学問というものがどれだけ直接的に効果を発揮しうるか、というのは問い直されてしかるべき問題である。いくら人文学の諸々が厳密性に欠けるとはいえ、煩雑な学問的手続きを踏んで研究が行われることは事実であり、それはある種の遠回りであるとも言えうる。

二つ目に、あまりにも自己完結し過ぎるのではないかという問題がある。知的快楽を満たすため、立身出世を目指すため、といった理由と比べて、「生きやすさ」という次元は大いに個人的なものであるように思える。個人的な学問は、むしろ趣味の領域にとどめるべきであって、公的な研究機関において職業学者として学究すべきテーマであるのか、という疑問が付される。

***

ある学生の話②

-いま、社会学を学んでいるんですよね。一体、数ある学問の中から、どうして社会学を学ぼうと?

 

「私が社会学を学ぼうと思った動機は、自分の個人的な体験に大きく依存しています。学生時代に、不条理な学校のシステムや、世の中の閉塞感にフラストレーションを感じていて、それが学ぶ直接の動機になりました。解決したい…っていうわけではないんです。ただ、どういう理由で、どういう仕組みでそういう世の中になっているんだろう、っていうことが知りたくて。でも、そのあと学んでいく中で、社会学っていう学問を通して、もっと色々なことが解決できるって気付いたんです。例えば、うーん、もっと根本的な、自分のこと、っていうか…。」

 

-うーん、それはどういうことですか?もう少し詳しくお願いします。

 

「うーん、なんというんでしょう、社会学っていう方法で、世界のことを知ることが、そのまま、自分のことを知ることに繋がるっていうか…。上手くは言えないんですけど…。ほら、セカイ系って一時期流行ったでしょ。エヴァンゲリオンとか、最終兵器彼女とか。自分の判断とか理解とか解釈とか行為が、そのまま世界を救うとか滅ぼすに繋がるようなテーマの物語。あれの逆っていうか。そういう感じなんですかねえ。」

***

学問を問い直す方法

利己的な理由での学びをどう判断するかについて考える時には、我々自身を問い直すことだけでなく、学問を問い直すことも必要となる。ここでは、実際に学問を問い直す作業をするのではなくて、その方法について考えてみたい。

論ずるまでもなく、観念的・理想的に”学問”がどうあるべきか、どうであるのがより相応しいのかを考えることも大切である。が、この際見落としてならないのは、現にいまどのような状況に学問があるのか、ということ、すなわち、学問の外部状況を考慮することである。人間があるものについて判断や解釈を誤る典型的なパターンは、対象の内部ばかりに気を取られ、外部状況を完全に遮断してしまうということだ。

確かに、学問の究極目標は、真理の把握であるとか、よりよき世界像の模索であるとか、いろいろなお題目によって表現することができるであろう。が、それらもまた世界の中に内在しているのだということは圧倒的な事実である。学問は社会に内在する。その事実が、学問のあり方を相当に規定する。

特に人文学は社会に内在することによる規定を強く受ける学問分野であるといえる。文化や社会の諸相を把握しようとする営みは、同時にある文化や社会から発せられるものである。だからこそ、観察者の立脚する社会的文化的基盤は十分に吟味されねばならないものである。学問を問い直す営みもまた、そうした自己反省を十分に含むものである必要がある。

この点において、人文学によって人文学を問い直す方法は、学問に内在する理想や理念のレベルと、学問に外在する制度や構造のレベルとを並行する冷静さ、客観性を求められるのだ。前者が強い普遍性を持つのに対し、後者は強く時代に制約される。そうである以上、この問い直しは構造的な必然として、不断に行われねばならない。絶え間ない学問の自己反省を可能にするような姿勢は、システムのレベルでも個人のレベルでも、ある大義をもって洗練されるべきである。

***

ある学生の話③

-急に質問なんですけど、自分の学び方とか、将来の学び方っていうものについて、どうあるべきだと考えていますか?

 

「えーっと、うーん、何をどう学ぶか、とか、学ぶ動機みたいなところはしっかり押さえているつもりなんですけど、学び自体がどうあるべきか、ってなると、ちゃんと考えたことはないかもしれないですね。楽しくて、ためになって、必要だからする、それくらいの、良く言えばシンプルな考え方をしてきたので…。何にも考えて来なかったって言われたら、そうかもしれませんけど…。」

 

-うーん、ちょっと質問が悪かったかもしれません。別の質問、といっても全く別ではないのですけど、あなたは誰の為に学んでいるのですか?

 

「誰の為?そうなると自分なんだと思います。でもそれが、どこかで誰かの役に立ったら嬉しいですね。」

 

***

生きやすさが主語を広げる可能性

ここまで本記事で書いてきたことを要約すると、以下の三点である。現代はあらゆる虚構が溶融した生きづらい時代であるということ。生きやすさを求めることを前面に打ち出した学びには、そのあり方に疑問が付されうるということ。人文学が社会に内在する以上、それは社会からの制約を免れず、学問としての在り方は常に問い直されるべきだということ。

これらの条件を考慮したうえで、『生きやすさのための諸人文学は断罪されるべきか』という、本記事のタイトルでもあるテーマについて考える。

結論として、僕は、生きやすさのための諸人文学は安易に断罪されるべきではない、と考える。生き易さのための人文学に、可能性があるからだ。

それは、目的となる「生きやすさ」が主語を広げる可能性である。すなわち、「わがため」の研究から「われわれがため」の研究へと、生きやすさの次元が拡張することをもって、利己性を克服できるのではないか、という可能性である。

僕が大学生活を送っていて、「生きやすさのための学問的言説」のすべてに通じて感じる違和感は、その主語が一人称単数であるということである。この一人称単数を、複数にすることによって、生きやすさへの人文学の発展が期待できるのではないか、と考えるのだ。

この考えは、異なる特徴を持つ学問と比較することで鮮明になる。つまり、工学や経済学など、より実益を生むとされる学問は、特に「特定の誰かの為」という強い方向性を持っている。この技術を駆使することで、障碍者の方が救われるのだ。このシステムは雇用者をより安定した労働環境に導くのだ。このような、いわば、強い目的語を持っているのである。だからこそ、学問としての存在価値について、強い説得力がある。この学問は、誰それに役に立つのです、という言い方ができるのである。

一方で、生きやすさのための人文学は、強い目的語を持たない。ある研究が、誰のために役に立つか、個人の顔も、集団の顔も見えることはない。そこにあるのは、ただ満たされない主語のみである。

僕は、この満たされない主語が拡大して、複数形となったとき、生きやすさのための人文学に未来が開けるのだと考える。すなわち、主語が抱える満たされなさが広く共有され、同じ問題を解決する手段として、生きやすさのための人文学が成立しうるとき、ある種の救済としての人文学が立ち現れるのである。

僕たちの時代が抱える生きづらさ、満たされなさは、ある種の共感を生みうるものであるはずだ。学問が社会に内在するのと同じくらい、いやそれ以上に、個人は社会に内在しているのだから。もはや僕たち全員が大義を持たず、そして大義のなさに辟易しているのだから。それならば、個人のあり方と学問のあり方は十分に対応しうるはずだ。ここに、個人の抱える問題が、社会の抱える問題、学問の抱える問題と足並みを揃えうる可能性がある。それを何らかの観念において、理論立てて解決できるのであれば、人文学には十分な公益さえあるといえるのではないだろうか。

以上の考え方は、明らかに批判されるべき点を含む。学問をかなりの程度において宗教化させてしまうという点においてである。より学問に寄り添って言うならば、「純度」の高い学究を妨げる恐れがあるという点においてである。あまりにも大義を強く打ち出し過ぎている恐れがある。とはいえ僕は、学問は宗教でも構わないと考える人間である(そこに徹底した自己批判が含まれている限りにおいて)。裸で彷徨うくらいならば、大義を、いや、教義をまとった方がマシだ。だが学問によって人が救われようと思うならば、絶えず学び続ける必要が生じる。宗教の教義が何百年と大きな変化を受けずに存続できるのに対して、学問の教えは十年で古くなる。もしかしたら、この道の一番の危険は、最も宗教的に思える道が、最も宗教的でないということかもしれない。

Taiki Obonai 2014-