僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

ネタ見せ番組が減ったことで、視聴者のお笑いを見る力が衰えた。

僕はお笑いが好きです。このブログも、少し堅い文章を書くこともありますが、一定の割合はお笑いに関する記事です。今日は、最近僕が感じているお笑い界の衰退の気配、その理由などについて、記事にしてみようと思います。

結論から言えば、「ネタ見せ番組がなくなったせいで、客のお笑いを見る力が低下した」という内容の記事です。

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そもそもこういうことを考えるに至ったきっかけは、賞レースの結果と、それに対する人々のリアクションです。

キングオブコントで、優勝したシソンヌについて批判がたくさん出たこと。(僕は大爆笑しました)

THE MANZAIで、予選の結果と決勝の結果がまったく異なるものとなったこと。

THE MANZAIで、審査員がしきりに口にした「分かりやすさ」というキーワード。

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身の回りの人の話、twitter、2ch実況スレ、Youtubeのコメント、様々に「お笑いを見てどう思ったか」を収集しながら、あれこれ考えました。

結論として、ネタ見せ番組が減ったことで、視聴者の「お笑いを見る力」が衰えたということが言えそうです

順番に①②③の問題を解きほぐしながら、お笑いリテラシーについて考えて行きます。

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①について。

キングオブコントで優勝したシソンヌのコントは、ボケとツッコミが不在のコントです。シチュエーションの面白さを追求した形のコントだといえます。そして、コント内で、「こんなシチュエーションおかしいやろ」的な発言をする人物も存在しません。徹底して、「笑いどころがどこかは提示しない」コントだったのです。

そうしたコントの面白味を理解するためには、自分で笑いどころを見つけ、反応する必要があります。その能力において、審査員の芸人たちと、視聴者との間で差があったのだと思います。

一般に、お笑いにはボケとツッコミがあるものとされています。ボケというのは逸脱や異常であり、ツッコミはそれを指摘するものです。ツッコミというのは、笑いどころを視聴者に提示する役割を持っています。

だからこそ、分かりやすいツッコミがなければ、分かりやすい笑いにはなりません。シチュエーションに仕掛けがしてある、ツッコミ不在のお笑いというのは、構造として高度なものです。

とはいえ、この手法は全く新しくて突飛なものではありません。かつてアンジャッシュが全国区でブレイクしたときの、「擦れ違いコント」や、友近中川家の「あるある芸」にも、ツッコミは不在なのですから。必ずしもお笑いにボケとツッコミが必要ではなくて、シチュエーションの面白さだけでも十分に笑いとなることは、実は既に証明されているのです。

シソンヌのコントは、そうしたシチュエーションの選び方、フレーズの強度、どこをとっても評価されるべきネタでした。優勝かどうかは好みによるとしても、あのネタをつまらない、笑えないと切り捨てるのは、単にコントの見方を知らないということに思えてなりません。

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②について。

THE MANZAIの予選に足を運ぶような客は、お笑いに対するリテラシーが高いです。分かりにくい(頭の回転を要する、だとか、前提知識を要するような)ネタについて、理解するスピードが他の人よりも高い。だから、変則的な漫才や高度な漫才についていくことができます。

しかし、決勝の観覧客やテレビ視聴者はそうではありません。かりにくいネタは、分からないまま終わってしまうことがあります。それはある程度仕方ありません。ただ、にしても伝わらなさすぎた、というのが去年のTHE MANZAIでした。

学天即、和牛など、「漫才の約束事とされる部分」をネタにするようなネタが、全く響かないのです。例えば学天即のネタのツカミ部分。


ボケ「俺らも頑張ってる方やけど~」
ツッコミ「珍しい入り方してるわ、大体頑張っていかなあかんわとか言うんやそこ」

このやり取りの面白さを理解するためには、ふつうの漫才がどういう入りをするかを知っている必要があります。お笑いのリテラシーの差というのは、こういうところに反応できるかどうかに現れます。

そうした感度の部分で、予選と決勝の順位のギャップが生まれたのでしょう。予選上位だったコンビにはそれぞれ、分かりにくさと、分かりにくさゆえの面白さがありました。例えツッコミの学天即、Wボケの囲碁将棋、間とシュールの馬鹿よ貴方は、高速漫才の磁石、それぞれに分かりにくさ、そしてそれゆえの面白さがあるのです。

しかし、今回のTHE MANZAIでは、みな評価を受けることも、客席から爆笑をさらうこともできませんでした。審査員の気分として、「分かりやすさ」を重視する傾向があったからです。③に続きます。

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③について。

今回のTHE MANZAIの決勝では、開始早々に審査員の志村けんから「分かりやすいのがいい」という言葉が飛び出しました。これにビートたけしが同調したことによって分かりにくい笑いは退けられ、分かりやすい笑いが増幅するような大会ムードが出来上がってしまいました。

分かりやすい笑いというのは、確かにとてもいいものです。実際に僕は今大会で「分かりやすい漫才」とされ、評価を受けたアキナやトレンディエンジェルの漫才がとても好きです。しかし、それだけが評価されてしまうことは、お笑いの進歩や発展という文脈を考えたとき、好ましくないことであるように思えます。

松本人志が本大会を受け、テレビで語ったのは「お笑いは、客の半歩先を行かないと飽きられる」ということでした。僕もかなり同意します。

そもそも、「分かりやすさ」と「分かりにくさ」に、お笑いの場合は優劣はないのです。お笑いにおける正義は、笑いを取ることなのですから。「分かりやすさ」も「分かりにくさ」も、笑いを取りにいくことの手法でしかなく、より笑いを取った方が勝ちなのです。「本当に分かりやすいからこそ、誰もが笑える」と、「何だかよくわからない、凄く新しいんだけど、誰もが笑っちゃう」ような笑いは、どちらも正義なのです。

お笑いブームの頃にブレイクしていった、オードリーや笑い飯スリムクラブモンスターエンジンチュートリアルやロバートなどには、「分かりにくさ」のエッセンスがあったはずです。

だからこそ、「分かりやすい笑い」というキーワードのみが独り歩きした漫才大会について、僕は違和感と懸念を抱いたのです。

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ここまで、現状のお笑い界、そしてそれを受け取る視聴者について、あれこれと述べてきました。

では、一体現状には、何が必要なのでしょうか。

お笑いに限らず、芸には、「客を育てる」という言葉があります。それこそ松本人志のいう、半歩先を行く笑いです。少しずつ芸が進歩していき、客がそれについていくことで、芸人も客もより進化していく。そういった意味を含む言葉です。

思えば、アンジャッシュ友近は、テレビの視聴者を育てたと言えるかもしれません。彼らのシチュエーションの笑いは、ツッコミが不在でも笑いが起こるのだ、ということを、かつてお茶の間に雄弁に伝えていました。笑い飯にしてもそうです。ボケとツッコミは流動的でもいいのだ、むしろかえって面白くなりうるのだ、ということを、彼らは毎年年末に伝えていたはずなのです。

漫才やコントの見方や楽しみ方を覚える、「視聴者が育つ」ためには、実際にネタに触れる機会が必要です。ひな壇トークばかりに芸人が駆り出され、テロップで笑いどころが示されるような現在のテレビ状況では、客は育ちません。

今こそエンタの神様と、レッドカーペットが必要なのです。分かりやすい笑いをお茶の間に届け、その中にたまにノイズが混ざっている。で、どちらも面白い。正統派の笑いも、変化球の笑いも共存していて、お茶の間が自然にお笑いの見方を覚えて行く。そういった機会が必要なのです。

ということで、ネタ番組の黄金時代が再び到来することを期待しています。それは来年か、5年後か、10年後か…。

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<参考記事>
今回の記事の原型となるようなことがかなり書かれています。

 

キングオブコント2014感想・総評 - 僕が本当に面白いと思うこと

THE MANZAI 2014感想 - 僕が本当に面白いと思うこと

 

Taiki Obonai 2014-