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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

ヒトとモノとの臨界を見つめて

雑考 社会学

実は、僕は視力がよくない。先日、メガネを買い替えようかと思い立って視力検査に行った。先客がいたようで、僕は少しの間待つこととなる。係員が僕の整理番号を呼んだ。その時、僕に名前はなかった。僕の全存在は『7番様』という番号に抽象された。自分がヒトでなくなったような気がして、何だかおかしく感じた。

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モノ化されるヒト

マルクスを引用するまでもない。資本主義というシステムは、ヒトを経済的な意味でモノ化することにおいて成立している。近代を科学の論理による世界把握が発展した時代と位置付けるならば、それは同時にヒトがヒト自身をモノ化していった時代だと言っても良い。社会運営のための経済活動によって、ヒトとその生活を構成するあらゆる領域が分節化され、モノ化されていった。

僕たちは時給と引き換えに寿命を売りさばいているし、僕たちは気力や体力を支払って消費と生産の渦を作り続けている。僕たちの身体はこうした資本主義社会の中に組み込まれていて、そこに僕たちの人間性や意志はまったく捨象されてしまっている。

現代という時代が、近代との連続のもと、その延長上にあるだとか、全くもって非連続であって、近代から飛躍した時代なのだとか、様々な時代分析の議論がなされている。それらの営みが真に意味あるものとなるにはもう少し時間がかかることだろう。資本主義というシステム自体の見つめ直しも同時進行で進んでおり、活発な議論が交わされている。

①ヒトをモノにしてよいのか?
②それはどんな条件のもとで成立するのか?

僕たちが突きつけられている、あらゆる社会的な問を微分していくと、この二つの問に帰着していく。それが原発の問題であれ、法解釈の問題であれ、経済復興の問題であれ、教育現場の問題であれ、ヒトとモノとの臨界をどこに求めるかが問われている。

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失われた人間性への懐古

その一方で、失われた人間性への懐古が、特にオタク文化、ネット文化において見受けられる。社会現象ともなっているボーカロイドなどはその典型であろう。無機質な電子音楽に人間性を介入させる試みは、時代の需要を十分に満たすこととなった。

ここで言及すべきことは、当然、ボーカロイドそのものは徹底的にモノであるということだ。いかにヒト化して、キャラクターを設定し、同人誌で性的な描写が為されるなどしたところで、それは徹底的にモノでしかない。ヒト化されたモノとは、フィクションに他ならない。僕たちの時代がヒト化されたモノに求めているのは、失われた人間性への懐古そのものである。

言うまでもなく、失われた人間性の懐古は、そこに様々な理想化、フィクション化の作用を伴う。そして高度に神話となった人間性は、時に暴論を伴う。悪戯に強化されたナショナリズムの発露としてのネトウヨ現象、”本来○○はこうあるべきだ””○○から逸脱したものは許されない”といった論調の話題、例えば処女信仰、例えば学歴信仰などなど、ネットにおける暴力的な議論の背景には、高度な神話化作用が隠れている。

 医大生は頭が良いに決まっている/Fラン大生は頭が悪いに決まっている
 処女は高貴に決まっている/非処女はビッチに決まっている
 日本人は礼儀正しい/韓国人はマナーがなっていない

これらの神話の特筆すべき点は、すべてヒトを念頭にして論じられたものであるということである。ある一般的な規範を設定し、その規範を順守する人間と、逸脱する人間との間に明確な線引きを施す。人間性への懐古という精神的傾向は、あらゆる観念を簡単にヒト化させる。国を擬人化するアニメ”ヘタリア”が流行したのも偶然ではない。

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リアルとリアリティの混同

僕の周囲には、元ネトウヨであると公言する大学生や、学歴コンプレックスに苛まれる大学生、非処女叩きに心を注ぐ大学生が実際に存在している。

彼らが信じるそれぞれの神話は、それなりのリアリティを持つ。火の無い所に煙は立たないとも言う。それぞれの神話が、神話として成立するための条件は、確かに十分にそろっている。文化的な前提、心的態度としての自然さなど、様々な面において、それらの神話は現実とのごく微妙な接続、あるいは、なだらかな断絶を共有する。

ここに、リアルとリアリティの混同が発生する原因が存在する。リアルというのは、まさしく”ヒトそのもの”が”モノそのもの”に取り囲まれて存在するところに成立する。その生活領域を、【ヒトのモノ化が進んだ社会における、モノのヒト化によって人間性を懐古しようとする神話】が浸食する。これがリアルとリアリティの混同の正体である。

ここで注意すべきことは、こうした神話によって構成されるリアリティは、リアルとなだらかに断絶しているということである。混同されたところで、決して同一化することはない。リアリティはリアルとは異なる。虚構の成分が含まれているがゆえに、リアルはリアリティとなるのだから。

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徹底的に反省的態度を取ること

こうした風潮のさなかにあって、自分の考えていることや感じていること、発言していること、行為していることが、どれくらいの純度のリアルであるかは分かりにくくなっている。リアルとリアリティを混同し、低い純度の言論をする者たちが、Twitter界隈をにぎわせていたりする。

僕たちがしなければならないのは、徹底的にこうした自己の態度について、反省しようと試みることである。どこまでが虚構であるのか。自分が依拠している神話は存在するのか。それらはどうやって取り払うことができるのか。あるいは、取り払わない方が幸せなのか。

僕たちの時代は、僕たちに明確な指針や、分かりやすいスローガンを与えてくれるような生易しい時代ではない。むしろ、複雑に絡み合った現象を、そのままごった煮にして提示してくるような、分かりにくい時代である。

だからこそ、僕たちは僕たち自身のことを知らなければならない。僕たちが僕たち自身を知るためにも、自分が依拠する現実”らしきもの”の足場について、隅から隅まで反省してみようとする態度が必要である。

そうした反省の基準は、すなわち以下の二点である。
①ヒトをモノにしているか?
②それはどんな条件のもとで許可されるか?

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個人的な反省として

あらゆる理解は、対象を直観することと、自分の中に存在する理論や知識など、何らかの体系とを照らし合わせることから始まる。だからもちろん、僕も身の回りの生活空間において、ある一定の経験的知識をもとにして、人や状況を判断したり、評価したり、もっと言ってしまえば、値踏みしたり避けたり愛したり憎んだりしている。

僕もまた、すぐれて虚構であるような理論・知識に依拠した観点において人を見てしまうことがある。過度な人間性回復の欲求が、かえって他人に対して、非人間的なゴールを押しつけてしまったりする。

僕の反省はここにある。他者をありのままに全て受け入れる、というようなきれいごとを言うつもりは毛頭ない。しかし、過度の理想化がかえって人間性を妨げるくらいならば、僕はありのままを直視することは大事にしたいと考える。それを受容するかしないかは、態度というよりは判断の問題。とにかく、現実を直視しようとする目に、あまり度の強いレンズを被せないことである。

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僕は結局、メガネを買うことをやめて帰った。裸眼で生活することも、不便ではあるが悪くない。多少ぼやけるとはいえ、視界を邪魔するフレームはない。生活の上での面倒もない。ああ、そういえばもともと、僕の顔にメガネはあまり似合わないのだ、と、バスに揺られながら思い出す。バスを降りようとする。料金を払うのを、うっかり忘れる。運転手が呼び止める。「ちょっと、230円」と、僕の名を呼ぶ。

Taiki Obonai 2014-