僕が本当に面白いと思うこと

社会学専攻の京大院生の諸々

「京都ラーメン」と「京風ラーメン」から

僕はかなり多趣味・多嗜好な人間ですが、特に食の分野についていえば、ラーメンに熱い思いを抱いています。至極の一杯を求めて全国各地を旅行し、有名店を巡ったり、ふらりと地域のお店に入ってみたりと、ラーメンにかける姿勢は情熱であり、執念であり。

どうして僕がラーメンに愛を寄せるのか…。一つ大きいのは、両親もラーメン好きだということ。「このラーメンは~」「あのラーメンと比べて~」といったような、「ラーメン語り」をする家庭に育ったのがそもそもの始まりです。その後、ラーメン雑誌や各種サイトから、ラーメンを語るための語彙を増やしていき、ついぞラーメンモンスターとも言うべき偏愛の塊たる僕が生まれたわけです。

函館、八戸、喜多方、白河など、北日本の『ご当地ラーメンどころ』には家族旅行という形で、博多、尾道、横浜、和歌山など、関東以西の『ご当地ラーメンどころ』には個人旅行という形で、ひたすらに食べ歩きを堪能しております。

今回は、そういうわけで、ラーメンについての記事。特に、今僕が住んでいる『京都』という土地のラーメンについて、それもちょっぴり社会学チックな視点を交えて、まとめてみようと思います。

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京都ラーメンとは何か

京都ラーメンとは、京都市内において古くから見られる、伝統的なラーメンの様式を備えたラーメンを言います。店名で言えば、「新福菜館」「珍遊」「第一旭」「ますたに」などが京都ラーメンの典型として挙げられることが多いかと思います。大まかに共通する特徴としては、以下の4つが挙げられます。

①鶏ガラをベースにしたスープ
②強い醤油味
③スープの表面に浮く豚の背油
④ストレート・低加水の細麺(博多に近いが、茹で加減はより柔らか目)

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以上のような特徴が合わさると、写真のようなラーメンが出来上がります。これは、銀閣寺周辺にある「ますたに」という老舗の京都ラーメンの画像ですね。いかにも食欲をそそるような、正統派のルックスです。背油が脂っこく見えるかもしれませんが、多めのネギとさっぱりした細麺の食べごたえのために、後味はしつこくない。これも、京都ラーメンの特徴だと言えます。

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京風ラーメンとは何か

ここまで「京都ラーメン」について説明してきましたが、実は、これとは別に「京風ラーメン」というものが存在します。これは面白いことに、京都発祥のものではありません。他地域において、京料理的な「薄味」「淡泊」「和風」といった「いわゆる京都のイメージ」を備えたラーメンについて、「京風」として宣伝したのが始まりです。画像をご覧ください。

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これは、群馬県伊勢崎市にある、「京風ラーメンはなむら」のラーメンです。具として「花型のふ」や、「ミズナ」が入っているあたりが、「京風」の証です。こうしたラーメンは、「京風ラーメン」であり、「京都ラーメン」とはルックスからして大きく異なります。これは要は、「こういうのって京都っぽいでしょ?」というのを具現化したラーメンです。この手の「京風ラーメン」は、比較的日本全国色々なところで見ることができます。「京風ラーメン」の拡大により、「京都ってああいう、あっさりしてて和風なラーメン屋さんが多いんだよね?」というような誤解もまた、広がっています。

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地域性とイメージ

さてさて、実際に京都で食べられている「京都ラーメン」は、むしろ正統派の「中華そば」に近いスタイルであるのに、「京都化」を施された「京風ラーメン」が存在する。この事実は、実に面白いです。

ここに見受けられるのは、京都という土地の祝福されるべき、そして同時に呪われたともいえるような宿命でしょう。京都といえば、古都であり、千年の都であり、日本の象徴であり…。そうした文化的なバックグラウンドを背負っており、嫌でも押し付けられているのだということの、一つの表れが、「京都ラーメン」と「京風ラーメン」の違いに現れているのです。

京都のラーメンは、和風に決まってる。いわゆる「中華そば」スタイルであっちゃいけないんだ。とでもいうように。

イメージというのは、とても抽象的なものです。「京都」と言われたら、「日本の古都」というような一問一答型のイメージは、時に「京都そのもの」のあり方をどこか遠くへ置き忘れてしまいます。抽象的というのは、捨象的であるということを忘れてはいけません。例えば、「京都といえば寺」という発言をするとき、発話者は「京都」から「寺」を抽出していると同時に、「寺以外のすべて」を捨て去っているのです。京都には、寺社仏閣以外にも様々な見どころがあります。抽象・捨象により生じる「実態とのズレ」は、時に大きな誤解をもたらします。

「京都」という街について、イメージによる抽象・捨象と実態とのズレがあるのだと実感したのは、高校の修学旅行の時でした。僕はたまたま地理的な知識に強いこともあり、京都と言う街が古都であると同時に、一つの大きな経済圏を持つ、関西屈指の大都市であるということも知っていました。しかし、周囲では、「京都なんて行ったって寺しかなさそう」「遊ぶところないでしょ」「人住んでるのかな」というような言葉が多く聞こえていたのです。

確かに、青森県(僕は青森出身です)の高校生にとって、京都という街はあまりなじみもない、イメージのつきにくい街だろうとは思います。とはいえ、京都市の人口はおよそ150万人で、実は青森県全土の人口と同等か、それよりも少し多いほどなのです。この事実を知っていた僕にとって、同級生たちが「京都」について持っているイメージは、かなり驚くべきものでした。「京都って、仙台と同じくらいか、それよりもうちょい大きいくらいだよ」くらいに言えば、東北の人間は京都市の規模を把握します。

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戦略としてのイメージ

この状況を、「それは高校生の常識の欠如だ」ということはたやすいでしょう。確かに、京都は政令指定都市であり、日本全国においても十指に入る大都市です。高校生よ、勉強しろ。常識を持ちなさい。それはごもっともなこと。しかし、ここで僕が注目したいのは、「どうして京都という都市について、青森の高校生は過度に抽象・捨象されたイメージを持っていたのか」ということです。

この問題に対して解を与えるうえで、社会学の古典理論である「ラべリング理論」が大いに役立ちます。

これは、シカゴ学派と呼ばれる、都市に実際に出て人々の行動を観察しよう、というコンセプトの学派に属していた社会学者、ベッカーによって提案された理論です。ベッカーは薬物中毒者など、社会的に不良とされる人々について観察を行い、その成果として「ラべリング理論」を確立しました。内容をざっくり言えば、「不良だから犯罪を犯すのではない。不良は犯罪を犯すものだと思われていて、お前らは不良だと人々に決め付けられるからこそ、不良が犯罪を犯すのだ」というものです。人はみな、他者によってラベルを張られたように行動する傾向があるのではないか、というものですね。

さて、この「ラべリング理論」について、『京都のイメージ戦略』に拡大すると、非常に面白いことが言えます。話をラーメンに戻しましょう。実際の「京都ラーメン」は、オーソドックスな中華そばスタイルであった、という話は前述の通りです。しかし、「京都」という街のイメージに合わせたような「京風ラーメン」が、京都以外の土地において拡大する現象が起きた。これを受けて、京都ではラべリング理論の通り、「京風ラーメン」の新規開店が続出したのです。他の地域において「京風」と思われるような形に、「京都」の側が寄って行ったのです。

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これは、京都駅地下の「かんじん堂」で出されているラーメンです。トッピングのから揚げのようなものは、「東寺揚げ」と呼ばれる湯葉の揚げ物です。なんとも「京風」なラーメンですよね。京都駅という立地ゆえに、もちろんターゲットが観光客であるから、過度な「京都化」がなされているのだ、という説明はできます。確かに集客戦略上、「京風」に寄せることは有効なイメージ戦略だといえるでしょう。このような、「京都による京都化」が行われることが頻繁にあるために、他地域の人間が、より実態と異なる京都イメージを持つに至る、と考えることもできそうです。

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終わることのない偽・京都化

京都において、本来の「京都ラーメン」とは異なる「京風ラーメン」の出店が存在することは、「京都が京都としてイメージされるものに近付こうとする現象」であると同時に、「京都としてイメージされるもの」が「本来の京都」とは異なっているために、「偽・京都化」と理解することができます。「本来の京都」とは「京都ラーメン」であり、「偽・京都」とは、「京風ラーメン」のことだと理解してください。

観光地というのは、対外的にどう思われているか、という一点においてのみ、その価値や独自性を確保することができます。「京都って、実は大阪と変わらないよね」とか、「京都って、なんだかんだ都会すぎ」みたいに思われてしまったら、観光地としての魅力が下がってしまう。だからこそ、京都市は宣材写真として、河原町や新京極ではなく、嵐山や清水寺を使うのです。ここには、観光地としての宿命、終わることのない「偽・京都化」を見ることができます。

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勝者不在のレース

もっとも、これは京都に限ったことではありません。対外的に魅力を発信しよう、人を呼び込もう、そう考えているあらゆる地域が、絶え間なく偽・〇〇化にコミットすしなければなりません。もう食べる人も少ないであろうマイナーな郷土料理を宣伝する、死滅した方言をさも当たり前であるように伝える、自然の風景を守るために植樹する…。このすべてが、偽・〇〇化の営みだと言えます。

僕は、こうした偽・〇〇化がダメだ、と言いたいわけではありません。失われゆく文化を取り戻すことや、古来の伝統と新しい物を融合させて宣伝することや、地域おこしの一環としてある程度市場的な魅力を誇張することは、ごくごく当たり前の戦略だといえます。それが上手くいく例が、例えばゆるキャラ(抽象=捨象の典型例でしょう)のブレイクなのでしょう。

ただ、僕が問題にしたいのは、こうした偽・〇〇化のレースには、終わりがないのだということです。レースに参加した時点で、対外的な知名度をより高めねば、少なくとも保たねばと思う限り、終わりがありません。レースを降りるときは、負ける時です。勝利によってレースを終えることはありません。なにせ、日本一の観光都市、京都でさえも、偽・京都化のさなかにあるのだから。京都が勝てない観光レースに、他の地域が勝てるはずはないでしょう。

終わりがないならば、続けなければなりません。そのためには、人員の確保、財源の確保、目指すべき偽・〇〇イメージの共有などなど、越えなければならないハードルがたくさん存在しています。地域で力を合わせて競わねばならないという意味では、一つのスポーツだとさえ言えるでしょう。偽・〇〇化にはこうしたスポーツ性があるこそ、「ゆるキャラ人気投票」「B-1グランプリ」といった、地域ごとの「偽・〇〇」を競う大会が盛り上がるのでしょう。どの都道府県も、どの市町村も、みんな頑張れ、みんな頑張れ。

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負けても良いんだ、ということ

ただ、この偽・〇〇化レースにはもう一つ特徴があります。それは、「負けても良い」ということです。現実に存在するこの手のレースは、特にコストがかかるものではありません。ゆるキャラにしても、B-1にしても、負けたところで何かを失うものではありません。むしろ、地元を見つめ直すいい機会だったね、レースには負けたけど、よかったね。そういうノリで参加できるということが、偽・〇〇化レースの大きな特徴でしょう。

負けても良いから、参加しよう。そういうノリが偽・〇〇化レースを支えている、そう考えたら、悪いもんでもないです。勝者不在の過酷なレースは、裏返せば、負けてもいい楽なレースでもあります。

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ここまでつらつら述べてきました。観光地のイメージ戦略には、過度な抽象・捨象による虚構性が含まれていること。そこには偽・〇〇化のレースが存在するということ。そしてそのレースは勝者不在だということ。だけど負けてもいいということ。

ここでやっと、個人的な意見、あるいは本題に入ることができます。僕には偽・京都化に文句があるのです。京都ラーメンに比べて、京風ラーメンは今一つなのですよ。もっと美味しいラーメンが食べたい。ぜひぜひ、京風ラーメンがB-1あたりを制するクオリティまで進化したら、と思います。勝者になってもらえたら、とね。

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(昨日食べた高安のラーメン)

Taiki Obonai 2014-