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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

こうじゃなくてもあり得た、と考えるべきなのか

日常生活

しばしば生き辛さを感じることがあります。僕が言う生き辛さというのは、生きていることそのものの仕様とか、限界に関する問題です。

僕が22歳のいま抱えている生き辛さの多くは、「こうじゃなくてもあり得た」ということの問題です。

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現実を受け入れねばならないということ

僕は問題解決のレベルで、あるいは自分のまとまりのない思考のレベルで、あるいは社会学で、あるいはメモ書きによって、いかに現実が現実たりうるか、虚構として危うくなるのかについて、これまでずっと考えてきました。でも最近実感しているのは、どうやら現実とは、現実なのだろう、ということです。

どうやら、僕を取り巻く日常とか生活っていうのは、ある日ふっと終わってしまわないようだ。急に地球の重力がなくなってしまって、空に放り出されることもないし、太陽が膨張して僕の体を飲み込んでしまうようなことは起こらない。ある朝起きたらすべてが無かったことになっていて、僕は病棟のベッドで産声を上げているだけ、みたいなことも有り得なさそうだ。どうやら、僕が生きているのは、本当に本当の現実のようで、これは、ある程度信頼しなければいけないものだということを、どんなに疑おうとも、認めなくなかろうとも、受け入れねばならないようだ。

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現実を受け入れて生きることが意味すること

ありのままの現実が、ありのままにそこにあることを受け入れて生きるということは、「こうじゃなくてもあり得た」を拒絶するような生き方です。目の前のものを、目の前にあるまま把握して、たとえば好いたり、嫌ったりするような、愛おしんだり、憎しみを覚えたりするような生き方です。

でも、人は、今だけを生きているわけではありませんよね。僕たちは思い出すことで過去を生き、思い浮かべることで未来を生きています。そうやって、よりよい社会や、よりよい関係性や、よりよい自分のあり方を模索しながら生きています。

僕たちの理想は、すべてが「こうじゃなくてもあり得た」という言葉によって表されるような枠組みです。そして、僕たちの現実は、すべてが「これでしかあり得ない」というものです。ある物の形や質は、時間をかければ十分に変えることができますが、現在ある現実を変えることはできない。

そうである以上、僕たちの考える「こうじゃなくてもあり得た」は、過去か未来かの、いずれかに向かう羨望の眼差しであり、現在に対する拒絶の眼差しです。

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「こうじゃなくてもあり得た」の眼差し

過去へ向かう「こうじゃなくてもあり得た」の眼差しは、とても空しい眼差しです。それ自体が、「こう」から変質することは、絶対に有り得ない。だけど、「こうじゃなくても」を想像せざるを得ない、悔しさと絶望に溢れた眼差しです。

未来へ向かう「こうじゃなくてもあり得た」の眼差しが、今まで時代を変えるエネルギーとなったり、自己の変容(成長ときっぱり言ってもいい)をもたらしてきた、ということは間違いなく言えます。

だから、本来、今を生きるしかない僕たちにとっては、「こうじゃなくてもあり得た」の眼差しを、未来向きに設定するのが賢い選択なのです。

だけど僕は、ついつい、「こうじゃなくてもあり得た」を、過去への虚しい眼差しとして生産して苦しみ、消費して苦しむことがあります。この愚かさは、僕が理性によってではなく、身体によって、あるいは心によって生きている人間であることの、何よりの証明なのでしょう。でも、合理的になりきれない自分に、釈然としない感情を覚えることがあります。

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他者の「事実らしき過去」に対する虚しい眼差し

目に見える光景も、耳に聞こえる言葉も、全ては僕にとって、認識のレベルでは疑うことのできるものです。僕は見間違えているかもしれない、僕は聞き間違えているかもしれない、勘違いだ、考え違いだ、と、いろいろな誤認の可能性を考慮することができます。ところが、あらゆる誤認の可能性を退けるほどの証拠をもって、事実であると判断できるようなものは、その時点で、僕にとって「事実らしき過去」としての価値が保証されます。

「事実らしき過去」が、「僕にまつわる過去」である場合、「こうじゃなくてもあり得た」の可能性があれど、自己反省することによって、それを諦めて、あるいは誇らしく思うことによって、十分に受け入れることができます。だけど僕は、他人の「事実らしき過去」については、十分な諦め、いや、十分な受け入れをすることができない場合があります。

他者に向かう、虚しい眼差しとしての「こうじゃなくてもあり得た」が、この頃、僕を生き辛くしています。決して叶わない、絶望以外の何物でもない望みで、それも諦めるための反省をすることもできないということで、本当に苦しく思うことがあります。何よりその不毛さが、事を大きくしています。こんなに些細なことで、なぜ僕は生きることを根本から悩まねばならないのだ、と思います。

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「こうじゃなくてもあり得た」と考えるべきなのか

「こうじゃなくてもあり得た」という思考によって、ありもしない虚構への没入が始まったり、現実の枠組みを拒絶するほかないような場所へ追い込まれたりするくらいなら、僕は「こうじゃなくてもあり得た」を考えないような生き方がしたいです。

一方で、現実とうまく付き合いつつ、「こうじゃなくてもあり得た」を考えることで得られる快や得があるとして、それを享受できるのであれば、そういった生き方が望ましいと思います。

結局のところ、人は付き合いよう、物は使いようなのです。「こうじゃなくてもあり得た」の思考とうまく折り合いをつける方法を探す、そして、きっちりと切実に考えるべき「こうじゃなくてもあり得た」については、切実に考えていく、そういった生き方がしたいです。

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「こうであった」ことそのものを愛おしく思えたら

この問題を円満に解決する一つの方法は、「こうであった」ということについて、現在との連続性において捉え、他者の過去らしきものを肯定するようなあり方なのでしょう。理屈としてはわかるのですが、いまいち実感しきれないというか、自分のものになっていない考え方ではあるのですが。

ここは僕の時間というものの捉え方の問題で、どうしても時間を連続性のもとに捉えることについて、実感がわいていないのです。結局のところ、時間の諸問題については今後も考えなければと思っています。

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僕なりの進歩としての生き辛さ

ここまで、僕が今抱えている生き辛さの根本問題を述べてきました。本当に悩んでいます。とはいっても、この生き辛さそのものを受容するにあたって、僕には戸惑いと嬉しさが同居したような、新鮮な感動を覚えています。

これまで、僕の生き辛さのすべては、自分の中で完結するものでした。自分が死ぬということ、記憶や思考が持続しない可能性、そういうことに生き辛さを感じてきたのですが、それらについては、僕の限界というより仕様であるのだと言い聞かせ、なんとか納得してきました。

そして、僕がいま感じている生き辛さは、他者へ向かう眼差しとしての生き辛さです。これは、僕の悩みが質的に対外的になったことを意味しているようで、とても嬉しいことだ、喜ばしいことだ、と思っています。堂々巡りの思考逡巡によって肥大した自我を抱えながら、やっと他者へ向けて、行動だけでなく思考をめぐらすことができるようになりました。とても厄介な生き辛さに、さらに厄介なことに、僕は愛着さえを感じて始めたのです。

僕自身の中に、やっと、「こう」自体を否定する形であれ、呼吸する他者を見たような気がしているのです。

Taiki Obonai 2014-