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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

地方出身者が関西での暮らしを楽しむたった一つの方法

僕は東北地方は青森県の生まれで、大学進学をきっかけにして関西に来た人間である。入学した頃ほどではないにしろ、今も暮らしていて文化や習慣、価値観の「差」は感じるものだ。

「差」は人を不安にさせるものだ。マルクスを引くまでもない、古くから人間が自由と同じくらい平等を求めてきたのも必然であろう。今回は、そういう『差』にまつわるお話。

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はじめ、関西の水が合わないと思った

はっきり言って、関西に引っ越してきた当初は、関西の水は合わないなあ、と本気で思ったものだ。全然しっくりこなかった。関西人はなんだか「関西を中心に世界が回っていると考えている」ように見えた。

「関西ルール」にある程度従わなければいけないのは分かる。郷に入ったら郷に従え。ただ、「関西ルールとは絶対的なものだ」という考えがあって、その他のものを受け付けないような姿勢の人が存在することに腹が立った。

新喜劇ネタついていけないんです。関西の高校ヒエラルキーとか知りません。お好み焼きを切り分けて文句言うなら、先に言ってください。

押し付けられる様々な『常識』に、僕はその都度反感を持った。それが無自覚に行われる場合はまだいいとしよう。中には、自覚的に『常識』を押しつけてくるタイプの人もいるのだ。

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「地元ではそうかもしれんけど」

「ゆうてお前もじきに関西弁なるやろ」

「それ関西やと通用せんわ」

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青森のローカル意識

東京出身者であれば、このような状況にあっても微笑んでいられるだろう。「関西は結局ローカルであって、スタンダードは自分たちの文化だ」という思いがあるから、慣れないものに遭遇したときにも、驚きがあるのみだ。「関西は、こういう土地なんだ、へえ。」という態度を崩さないで済む。

しかし僕の場合はどうだろう。僕の出身は東北地方の青森県。ローカル度で行けば日本最高峰である。青森県民というのは生まれてからずっと、『これは青森のローカルルール。東京ではこうだよ。まあ、青森だからこっちでいいけど』式に、ローカルルールの中で暮らしつつ、スタンダードはスタンダードとして押さえておくような育ち方をする。この方言はよそじゃ通じない、このしきたりはこの辺独特のもの、というようにして。だから、青森県民にとっては、自分たちのローカル性は、押しつけるものではなく、必要があれば隠すものであるのだ。

である以上、余計に「関西ルール」は鉄の掟に見えた。「青森って〇〇なんやろ」系のステレオタイプが見えてしまう。会話の根底に、関西>東北という図式を相手が設定していることが見えてしまう。そして、僕はそれらを否定することができない。実際に、関西>東北の力関係を感じるからだ。『思ってたのと違う』の連続は、関西に来てしばらく、僕を困らせることになった。

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適応、自己嫌悪、揺り戻し

僕と親しい人の多くは、きっと僕のことを、人間関係や振る舞いにおいて器用な人間として把握していることと思う。人見知りもしない、大舞台にも強い、物怖じもしない僕は、関西のローカルにだんだんと適応していった。この時期は、自分が『関西化』していくことを、ある種誇りに思った。辛い大学受験で勝ち得たものが、学ぶ権利よりも関西人になる権利であったように錯覚したのかもしれない。僕は、関西での生活を心から楽しんだし、関西の言葉や文化が内面化されていくことを楽しんだ。自分が頭の中でロジックを組み立てるときに、『いうて』『知らんけど』のような言葉を用いていると自覚したときには鳥肌が立った。

ただ、少しすると僕は自己嫌悪に陥った。一人暮らしの始まりの興奮が冷め、慣れによって気持ちが落ち着き、周りを俯瞰できるようになった頃のことだ。

もちろん当たり前のことだが、『京大』『関西』『大学生』への適応速度は人によって異なる。関西弁になじめない人がいる。家事に苦労している人がいる。大学の学びにアジャストできない人がいる。恐らく、僕はすぐにそれらに適応した部類であろう。

そう考えていくと、どうやら、僕ははじめ自分があれほど嫌がり、疎ましく思った『関西ルールの押し付け』的な行為を、周りにしているようだ、と気付かざるを得ない。この認識は僕をひどく自己嫌悪に陥れた。揺り戻し的に、『地元のことも大事にしよう』と考え、地元の紹介を、笑い種にするのではない形でするようになった。僕には方言がないけれど、できるだけ地元の文化や食べ物を忘れないようにした。ローカル性やルールは、ごく相対的なものだ。勝ちも負けもない。ありのままにいよう。そう考えるようになった。

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関西のローカル意識

そこから発展して、今は『関西』という土地の理解も深まった。もっと序盤に察知しておくべきだった、一つの理解にも辿り着いた。『関西はユニバーサル志向のローカルだ』という理解だ。

京都という土地、もっと拡大して、関西という土地、西日本という土地は、それ自体が独特の文化や背景や条件に規定された、物凄くローカルな土地である。ただ、例えば大学や企業などには、遠方から多くの人が集まってくる。だから、関西という土地は、独自の文化を持ちつつ、ユニバーサルな一面もある土地だといえる。ローカルであり、かつユニバーサルなのである。

ただ、関西におけるローカルとユニバーサルは、あくまでもローカルが優先するものである。もともとローカルな文化が根付いている土地が、ユニバーサルな『引き』を持った形、それが関西だ。だから、『関西人』はユニバーサルを志向しつつ、自認しえない。『関西』をユニバーサルだと捉えるのは、遠方から来る人のみなのである。

これらは、大学というユニバーサルな空間に居れば気付きにくい発見である。関西はユニバーサル、京都はローカルなのである。

付け加えれば、時折、ローカルであるのにユニバーサルを志向する「関西」の姿が、おかしくも見えてくる。方言・ジャーゴンを使う限りユニバーサルにはなれないのに、標準語には拒否反応がある感じ。だけどそれでいて、関西という場所を普遍性のあるものとして理解しようとしている感じ。かつ、心のどこかで、東京って大きいよなあ、が透けて見える感じ。『関西的な価値観の在り方』が読めた際には、関西という土地の愛らしさを感じる。

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「オチは?」

「え、ビッグマンの場所しらんのwww」

「やっぱ関西人おもろいやろ」

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遠方での生活というのは、人に適応を強いる、負担のある環境である。僕のように、適応から自己嫌悪、そして弁証法的に相互理解へとスムーズに発展できる人は多くないかもしれない。ホームシックで悩んでいる、という話を聞いたこともある。

だけど、越境がもたらす種々の内的経験、苦労は、単純なマイナスではない。越境は多くの学びをもたらす。発見を与えてくれる。発想によっては、とても幸福な体験となる。

大学に入学してしまった以上、卒業に4年を要することは確定事項なのだ。遠方での生活にしろ、大学生としての生活にしろ、慣れる義務はないが、楽しむ権利はある。結局、僕が構えすぎていたのが悪いのだ。「関西人」にルサンチマンや反感や皮肉をぶん投げても、向こうだっていい気はしないだろう。

地方出身者が関西での暮らしを楽しむたった一つの方法、それは、自分の地元と関西のことを、自然な形で理解することである。

Taiki Obonai 2014-