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僕が本当に面白いと思うこと

6月3日に京都で一人コントライブします。よかったらどうぞ。

「多様性」という言葉について思うこと、考えること

一人で歩く時には、片手をポケットに突っ込んで歩く癖が出てしまう。

癖というのは大抵理由なんて説明できないものだが、この怪しい癖には一応大義名分がある。携帯電話を無くさないようにする、そういう意味合いで、僕はポケットに片手を突っ込む。両手を突っ込むよりも、ずっと怪しい。

この癖と大柄な身体ゆえか、街を歩いている時にも、特に用心深い子連れの主婦などが、僕のポケットに警戒の目線を投げかけているのを感じることがある。

ポケットの中に、危険なものが入っているのでは?凶器が出てくるのでは?不意にスタンガンなどが飛び出すのでは?そんな疑念の視線を感じることがある。

多様性の違和感

「多様性」という言葉が、爆発的に用いられるようになってから、どれくらい経つのだろう。多様な文化を受け入れろ、多様性を認めよう、多様な現実を受け止めよう、様々な文脈において、それらの言葉は、圧倒的な正義とともに語られる。世の中は、多様性ブームである。

僕は個性的でありたい、奇をてらいたい、人と同じ道を歩きたくない、そういう人間だから、画一的な文化の場は居心地が悪い。だけど、画一的に多様性ばかりが主張される世の中にも、どこか違和感を、もっと言えば狂気に近いものを感じる。

なんだか「正義過ぎる」のだ。

僕が小さい頃に見たヒーローものアニメや特撮でさえ、正義の味方は苦悩していた。複雑な現実の世界に、「彼らより正義」が存在するとはとても思えない。

思索とか考察というものは、しばしば違和感に端を発する。この違和感の正体を、頭を使って解きほぐしてみたい。

多様性の論理

まず、多様性というトピックを考えるうえで必要な理解がある。多様化とは、必ずしも「仲良くしましょう」の論理ではないことを理解することだ。

政府の発表、イベントのキャッチコピー、ニュースの特集など、聞こえの良い言葉を使うべき場においては、「多様性」という言葉は「仲良くしましょう」という意味で使われてしまうことが多い。

だけど、「多」であることは、すなわち「個」が独立・自立することを意味するのだから、「全体」としての連結は、必然的に弱くなりやすくなるものだ。多様化という現象は、集団を構成する要素の専門分化を常に伴う。

個別専門化の進んだ個人が集まり、その集団が「仲良くする」ことを目指すとき、集団の成員には大きな負担が強いられる。勇気と覚悟である。自分とは異なる文脈を持った人間を受け入れ、そこにコミットするのに十分な勇気と覚悟。それは、従来の集団本位の文化におけるコミュニケーションには、一切要求されてこなかった負担である。

「多様性を認め合う場」とは、「個人がそれぞれ自立し、勇気と覚悟をもってお互いの存在を受け入れる場」と読み替えることができる。多様性の論理とは、個人化の、であるからこそ、個人に負荷を強いる論理である。

前提としての自己開示

また、「お互いの存在を受け入れる」ということの前提には、十分な自己開示が必要だ。集団の成員が、「自分はこういう人間です」ということをアピールし合い、相互に「違い」を認識できるレベルまで噛み砕いて理解することなしには、そもそも「多」の論理が成立しない。

これまで、僕が知るところの日本であるとか、学校文化においては、そのような自己開示型のコミュニケーションは、積極的に推奨されるものではなく、むしろ丁寧に避けられてきた。

手垢のついた文化比較論のパターンを用いるならば、「多様性」というものは、西洋個人主義に根差すものであって、日本型集団主義全体主義にはなじまないものだ、といえる。このことは、日常生活の実感にも即している。

「個人」が根付く以前の、つまり「プレ個人」「プレ自己主張」の文化の日本において、「多様性」という言葉は、当然、独特の先進性と、居心地の悪さを伴って立ち現れる。「村八分」と言う言葉がある国において、「多様性」のロジックが本当の意味で根付くのは、まだまだ先のことであるように思われる。

多様性の皮肉

というのも、日本における「多様性」の語られ方は、それ自体がどこか画一的で、逆説を含むものであるように感じるのだ。

日本において多様性が語られるときには、「多」の前提となる個人主義が踏まえられず、仲良くしましょうの論理として語られてしまいがちだ。「多様性」という言葉を振りかざして、その実、「弱い個」「思考停止した成員」によって集団本位の行動がなされるような事態は、とても皮肉だ。「多様性」が1つの狂信となって、「仲良しな全成員」がそれに加担しているさまは、とても不気味だ。

「多様性の皮肉」の原因としては、十分な自己開示がなされていないことや、そもそも個としてのコミュニケーションに慣れがないこと、あるいは、成員同士の信頼関係の欠如などが考えられる。

そもそも「多」のロジックが日本人になじむのか、あるいは必要なのかといったことは問題外にするとして、いかにして、多様性への狂信を妨げることができるのか。

自己開示しない自由

僕自身の考えを述べると、僕は多様性のロジックが日本中に蔓延するような世の中には、あまりなってほしくない。僕は、「全人的な自己開示」がこの上なく苦手なのだ。

僕のことをよく知っている人は、いや、ちょっとでも知っている人なら誰でも、僕について、部分的にしか知らないように感じていることだと思う。誰についてだってそうだ、というのは勿論だけど、ことさら僕については、何となく不気味な感じがついて回っているんじゃないか、と想像している。

狙ってやっているわけではない。単純に、そういう人格のつくりになっているのだろう。僕は、部分的な自己開示であれば、部分にもよるが、何のためらいもなく、全てをさらけ出すことができる。だけど、部分によっては、全く開示していない部分が存在する。僕はそういう人間だし、そういうコミュニケーションの仕方に頼って、人間関係を成立させてきた人間だ。

多様性のロジックは、「どんな人でも、どんな振る舞いでも認める」という旗をかざしつつ、時に、自己開示を拒否する人に、冷たい視線を投げかける。「受け入れてあげるって言ってるんだ、全部見せればいいじゃないか」という声が、「場」から聞こえる。それが心地よいときもある。それがとても煩わしいときもある。

ポケットに片手をしまって歩く誰かのことを、包摂しうる多様性の形が欲しい。「見せない自由」「語らない自由」を、低俗だ、不謹慎だ、不親切だ、場にそぐわないといって切り捨てるような多様性に、価値はあるか。彼は、ポケットの中にラブレターを忍ばせているかもしれないじゃないか。

 

<追記>

二年後に同じ話題で記事を書きました。

 

heshiotanishi.hatenablog.jp

 

Taiki Obonai 2014-