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僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

言葉はどのように世界を分割したり統合したりしているのか

雑考

何か体験したことを思索のレベルに、あるいは曲がりなりにも文章のレベルに落とし込むには、一定の時間がかかる。今回の記事で展開している考えについても、もともとのきっかけとなった出来事は先々週のことだ。

 

ホタテ・エビ・イカ 魚介三”味”一体!! 海鮮

某弁当チェーン店のチラシに書かれていた言葉に、僕は釘付けになった。一瞬、意味がわからなかったのだ。四字熟語の「三位一体」をもじっていることが気になったわけではない。

引っかかったのは、「魚介」の二文字だ。僕の言語感覚として、「魚介」という言葉は「魚」がメインの言葉だ。確かに「魚介」にはホタテやエビやイカも含まれる。でも、「魚介を使ってます」というからには、「魚」を使っている必要があるような気がしたのだ。

僕は「魚介」という名をつけておきながら、ホタテ・エビ・イカという、魚類なしのラインナップを掲げるのはルール違反であるように思えて、なんだか違和感を感じたのだ。

 

次に、僕は自分の違和感そのものに対して、違和感を覚えた。そもそも、「魚介」という言葉は、魚や貝や、海で取れる食べ物のあれこれを総括した、集合的な概念を表す言葉だ。集合としての言葉を用いるときには、その集合の含む要素が一つでも含まれていさえすれば、論理的には何の不具合もない。

 

・「玉入れ」がなくても「運動会」は成立する。

・「巨人、阪神、西武…」ときたら「野球チーム」だ。「楽天」を挙げ忘れることはさして問題じゃない。

・「ドイツ・フランス・イギリスなど、欧米の国々が…」このとき、欧”米”だからといって、「アメリカがないからおかしい」とは、僕の言語感覚ではならない。

・「ホタテ・エビ・イカ」はいずれも「魚介類」だ。であるから、それを「魚介」とくくることに何の問題もない。こう順序立てて考えてみると、最初に感じた違和感は消失する。

 

でも、次の場合はどうだろう。

 

・「中高生がたくさん集まっています。第一中学、第二中学、第三中学の生徒さん達です。」

 

この表現には、多くの人が違和感を感じることと思う。「中高生」と言っているのに、「高校生」が出てこないからだ。

すなわち、属性を異にする複数の項から成立していると考えられる複合的な名詞について、ある項が完全に抜け落ちているとき、人は違和感を感じるのだ。

話を「魚介」に戻すと、僕はきっと「魚介」という言葉について、「魚とそのほかの海のもの」くらいの理解をしていたのだろう。だから僕は、「中高生」と言いながらも中学生しかいねえじゃねえか、という違和感と同じ種類の違和感を感じたのだ。

なるほど、自分は言葉をそう捉えていたのか、と納得した。

 

こんな風に、時たま言葉に対して違和感を覚えたり、納得したりをすることがある。そのたびに言葉のことがわからなくなる。自分自身がどう言葉を認識して、把握して、操作しているかへの謎は深まるばかりだ。自分自身のことなのに。

人間はみんな自分が日常的に用いる言葉については、ある程度わが物にしていると考えているはずだ。でも、使いこなせているからといって、言葉は自分の物にはならない。自分が使いこなせていると思っていた意味合いや用法が、実は辞書では間違っていた、とかはよくあることだ。そういう、自分が絶対正しいと思い込んでいた言葉の用法が間違いだったとわかるときの気持ちは、なんだか悔しいような複雑なものだ。

例えば、僕は中学生になるまで「初めて」の「初」の字のへんを間違えて覚えていた。絶対正しいと確信して、「ネ」と書いていたのである。中学の先生に間違いを指摘されたときには到底信じられなくて、先生が間違えているんじゃないかと思ったのを覚えている。

僕たちが認識する世界は、言葉によって区切られたり、構成されたりしている。そのもととなる言葉が間違っていたと他人に言われると、それまで見てきた世界すべてがガラっと動くような感覚になる。それは危うさを伴った感覚だ。

 

 

せっかくなので、一つ思考訓練の問題を考えた。

 

「十分な生存環境がある無人島に、一人ぼっちで何十年も暮らした人間がいるとする。彼は無人島に行く前は、一般的な学校に通い、平均的日本人程度の言語能力を持っていた。何とか彼が無人島を脱出し、日本に帰国したとき、彼はどの程度の日本語能力を持っているだろうか。また、言語能力の欠損によって、失われた概念や感情は、何で、どの程度あるだろうか。」

 

僕たちは主観的な言葉によって世界を分割したり統合したりしている。だけど世界のでき方は完全な主観ではなくて、言葉そのものが他者の関わり合いの中でアップデートされていく。

もし、言葉に対する他人の介在がなくなったらどうなってしまうのだろうか。主観的にしか認識されない世界は、どんなふうになるのかな。

 

僕たちは毎日、言葉を使いこなせている気でいる。だけど、その言葉の仕組みについては何も知らなかったりする。蛇口をひねれば水が出てくることは、誰でも知っている。けれど、どうして蛇口をひねれば水が出るのかを説明できる人はそんなに多くない。使えること(=技術)と、説明できること(=科学)は、別物なんだなあと思う。

使いこなせるというだけで、言葉が自分のものだと考えることが、思い上がりなんだろうな、と思った。

Taiki Obonai 2014-