読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

僕が本当に面白いと思うこと

社会学とお笑いと日常生活

故郷について

雑考

先日、僕は用事があって愛媛県にいた。

二回目の四国。

四国に行くのは二回目なのだから、やたらに非効率なダイヤのJR四国も、お椀型をした山の形も、瀬戸内海を挟んで見える小島も、僕には新鮮なものなはずだった。だけど、どういうわけか、それら四国の原風景は、僕にとってとても懐かしく思えた。久しぶりに故郷に帰ったような気がしたのだ。

---

話は変わる。

田舎出身の性だろうか、僕は都会が苦手だ。「東京」という言葉が持つ、人でごった返し、むせ返るような響きに、言いようのない嫌悪感を覚える。実家に帰省するとき、必ず東京を経由しなければならないことも億劫なほどだ。東京という都市が嫌いなのではない。「東京」が喚起するイメージとしての都会性が苦手なのだ。

僕は東京に行くたび、動悸がしたり、めまいがしたりする。そんな時に僕は、まずコンビニを探す。

「いらっしゃいませ」

---

話は変わる。

地元の青森県を離れ、僕は関西圏の大学に進学した。文化も価値観も生活様式も違う街は、いくつかの点で僕を不安にさせた。例えば笑いのセンス。吉本的なコテコテの笑いは、僕にとって背筋に悪寒のするものでしかなかった。「関西おもろいやろ」と言う人が全員つまらないのだから、関西はつまらないに違いない、と、ごく論理的な結論が早々に提出された。

そんな不安な場である関西で、僕は少なくとも四年、院進学を計画通りに進めた場合は九年を過ごす必要がある。僕にとって心安らげる場所を探すことは、目下急務の課題であった。

僕の住むアパートのすぐ向かいには、コンビニがある。僕が一番最初に見つけた心安らげる場所は、コンビニだった。

「いらっしゃいませ」

---

一般に、故郷というのは、個別具体的な体験として理解されるものだ。この場所だけが持つ感慨、この場所だけが持つ意味合いというものに人は引き付けられる。特別な場所。ここだけの場所。それが故郷だ、と人は言う。

だけど僕は、この「故郷観」に疑問を抱いている。

僕が慣れない街でコンビニに感じた思い・安心感は、間違いなく「故郷」のそれであった。画一的な「いらっしゃいませ」は、ひどく僕を安心させた。故郷は本来個別具体的であるはずなのに、画一化の極みであるようなコンビニが、僕を安心させたのは、なぜだろう。

---

僕なりの答えは、もう一つ浮かんでいる。
僕(に限ったことではないが)にとって、コンビニという場所が身近であるから、故郷的な安心感が湧いたのではないか、というものだ。

結局のところ、「故郷」というのは特別なものではなくて、どれだけ身近に感じるか、どれだけその場所に濃い体験を記憶したか、その値が一定以上に達すれば、全ての場所が「故郷」として立ち現れてくるのではないか、と思うのだ。

コンビニというのは、画一的な場所であるがゆえに、誰からしても画一的な故郷たりうる。僕が感じたような安心感を、きっと色々な人が共有できる。

このことを敷衍すると、「故郷」であるために、具体的な特徴であるとか、「色」「個性」の類は、必要ないといえる。故郷を故郷たらしめるために、名産品を探すばかりの地方自治体の在り方は、少なくとも僕の実感にはそぐわない。

---

「個別具体的な故郷」つまり従来の意味合いでの故郷と、「画一性ゆえの故郷」つまりコンビニ的な故郷は、質的に同じものだといえるのだろうか。

「故郷であること」の要因が「身近さ」しかないのであれば、全く同一なものとして両者を理解せねばならない。だが、それは我々の、少なくとも僕の実感にはそぐわない。

だから、もう一つ「故郷」を故郷たらしめうる要因を提案したい。「故郷として理想化されたものにどれだけ近いか」である。いわゆる日本人がイメージする「故郷像」にどれだけマッチするか、それによって対象をどの程度「故郷」として認識するかが変わってくるという目線である。

この観点を踏まえると、僕にとって、コンビニが「故郷」ではなく、あくまでも「故郷的なもの」として理解されたことの意味がはっきりする。

コンビニは、あくまでも故郷的な機能、つまり安心感を与えるとか、なんとなくホッとするといった程度の機能を代替しうるというだけであって、故郷とはなりえない。だから、あくまでも僕にとって「故郷的」でしかなかったのだ。

逆に、縁もゆかりもない愛媛県に感じた「故郷的」な感慨の理由も明晰になる。日本人が「故郷」として描く理想的な姿に極めて近い光景に、僕は僕にとって架空の「故郷」を見たのだ。たった二回しか訪れていない土地に対して、僕はそこで生まれ、小学校に通い、好きな子を追い駆け、友達と戯れ、公園でボールを追い駆け、大人になっていく姿を見たのだ。理想化された故郷に近い空間が、僕に強い想像力を喚起したのだ。

---

ここに、「故郷」を「故郷」たらしめる二つの要因が提出された。「身近であること」「理想化されたものであること」の二つである。体験・経験に密接であることと、イメージに近いこと。前者を身体的な故郷、後者を理想的な故郷と表現してもいい。

ここまでの考えを応用すると、「その土地を故郷としてPRする方法」は二つあることがわかる。「人々にとって身近にすること」「その土地の持つ故郷の理想に近いところを発信すること」である。そう考えると、「ゆるキャラ」というのはよくできたものだ。故郷を敷衍するうえで最も適した方法かもしれない。僕の地元のゆるキャラは、やや不調のようだが。

---

最後にもう一度、話は変わる。

関西から東北へ帰省するたびに、僕は「方言」に感慨を受ける。ストレスが平坦で、母音の区別の曖昧な東北方言は、やはり耳に心地が良い。そんな穏やかでしみじみとした表現媒体の上に、田舎人の素朴な感性が乗る。彼らの紡ぐ言葉は、どこまでも優しい。

青森を出発する夜、僕は衣服や携帯電話以外に準備がないことに気付いて、少し慌てた。軽い食べ物や飲み物、暇つぶしのマンガは、長距離移動において必需品だ。僕は、八戸駅前のコンビニに立ち寄った。

「いらっしゃいませ」

Taiki Obonai 2014-